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美術展雑談『幕末土佐の天才絵師 絵金』

絵かきの金蔵こと、絵金さんの屏風絵が大集合です。高知県で、お祭りのときに並ぶ絵なのだそうです。お祭りだったら楽しまなければ損ではないですか。
そういうわけで、公式のSNSで催されていた大喜利大会にも参加させていただきました。

清々しいくらいウケませんでした!
ほろ苦い思い出がまた一つ増えてしまっただけのようです。認めたくないものですね、自分自身の若さゆえのあやまちというものを。

もちろんご褒美のタダ券ももらえず、自腹で行きました。いつも自腹なのですが、今回だけは負けた気分で自腹です。ええ、自腹ですとも。
そんな小市民でしかない私の卑小な恨みつらみなんか、豪快に蹴り飛ばされました。絵金展『幕末土佐の天才絵師 絵金』は想像以上に楽しい内容になっておりました。
多くは鮮血をともなう、残酷な歌舞伎の模様を描いた芝居絵です。中村勘三郎さん(十八代目)が生前「歌舞伎からエログロをとったら、なんにも残りませんよ」とおっしゃっていたのを思い出しながら鑑賞しました。

会場内はお祭りの雰囲気が再現されています。

どの絵も歌舞伎独特のケレンを強くデフォルメして、露悪的でくどいくらい恐怖という官能に訴えるように描かれています。美術というより、見世物として見るほうが楽しめると思います。
とはいえ、たいへん失礼な言い方になりますが、絵画としても意外なくらい高い技術が見られます。まずなによりデッサンが確かです。指先まで気を抜いてません。動きには迫力を持たせ、立ち姿は堂々としています。勢い任せで描いたわけではない、相当な画力を感じます。
構図もすべてのものがそれぞれとても面白く、例えば私の愛する『伊達競阿国戯場 累』なんかは画面中央にインパクトのあるかさねさんの顔面を据え、右側の赤い着物の姫様を睨んで袖に噛みつくことで鑑賞者の視線がそちらに移るように仕組まれています。さらに抵抗する姫様の動きを追うと、着物の裾から左の男へと目線が自然に移動します。鑑賞者はぐるぐると画面を見ることになり、結果的にそれが累さんの暴れっぷりとして伝わってくるわけです。ぐるぐる目を回されたあと、画面の奥に到着すると、その後の展開として旅立つ男が小さく描かれています。全体のスペクタクルとディテールの塩梅で、物語を読ませているのです。見ていて飽きることがありません。

屏風絵風のポストカードを購入しました。
『伊達競阿国戯場 累』と『浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森』です。

絵金さんについて、これまで私は何かの折に作品を見かけていた程度で、よく知らずにおりました。どうやら謎の多い人のようです。
狩野派として若くして頭角を現し、土佐藩家老の御用絵師となったそうですが、贋作を描いたことで狩野派を破門され、御用絵師の立場も追われたということです。
しかし贋作事件も、絵金さんのことを妬む勢力の仕掛けであって、冤罪との説もあります。
ともあれその後、町絵師・絵金として町の人たちから求められるまま、刺激的な絵をこれでもかと描いたそうです。

石川五右衛門の生涯を描いた連作の絵馬絵も見ごたえがありました。絵金さんは、五右衛門の生き方に自身を重ねていたかのように思えます。
悪逆非道な泥棒の五右衛門が反権威的ピカレスクのキャラとして庶民から英雄視されていたように、絵金さんも美術の正史から外れながらも、大衆にとっては愛すべきスターであり続けています。人も組織も、そして国家もそうだと思うのですが、大きくなるといつの間にか成長をやめて保身に走り、ただ萎縮するだけになりがちです。絵金さんは、そんなものに対する強烈なアンチテーゼでもあると思います。

五右衛門の処刑の後、釜を洗っています。
祭りの後の淋しさと、日常に戻る無機質な空気が漂ってくるように感じられます。
このあたり、じっくり噛み締めたい描写です。

終章には、数々のデッサンが展示されていました。絵金さんはこれらを、後進の育成のため若い絵師たちに惜しまず分け与えたのだそうです。やせても枯れても狩野派であり、絵筆で生きている絵師であるという絵金さんの矜持を感じました。
いつか南国土佐の絵金祭にも行きたいですね。きっと実際のお祭りは、もっと非日常のあやしい雰囲気に違いありません。屋台は出ているのでしょうか。鯛焼きが食べたいです。私は鯛焼きを買うときは「一個ください」ではなく「一匹ください」と言います。基本ですかね。絵金さん、あなたは人の心を高揚させてくれます。こんな時代だからこそ、あなたの絵は貴重です。ぜひまた暑くてたまらない夏の夜に、提灯明かりの下でお会いしましょう。


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