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【小説】招き男 #1 天羽鞠

この家に来て、どれくらいになるだろう。

あの日は、朝からさんざんだった。

クソブタハゲアブラツボのコーヒーに、こっそり雑巾の絞り汁を入れて出した。
天羽あまはね 、ちょっと」
というクソブタハゲアブラツボの声が、その場を去ろうとする私の背中を捕らえた。
もしやバレた?と恐る恐る振り返ると、クソブタハゲアブラツボがコーヒーをすすっている。

「昨日のミスのことだけど」
あっコーヒーのことじゃないのね。ほっと胸を撫で下ろす。
それと同時に、うんざりした気持ちが一気に押し寄せてくる。

前日、一時間かけて小言を言われ、今またクソブタハゲアブラツボのそれが始まると思うと、くるっと回れ右して、そのままスタスタとオフィスを出て、家に帰ってシャワーを浴びて、そして二度と職場には戻らない、そんな “天羽、会社やめるってよ” をしたい衝動に駆られた。

「ちゃんと反省しましたか?」
そう言いながら、クソブタハゲアブラツボがコーヒーをすする。

「はい。昨日はすみませんでした」

「反省文、書いてもらおうかな」

クソブタ、なに言ってるの?

「反省文ですか…」

「書く?」
書きなさいと命令するのならまだしも、こうしてネチネチやるところが癇に障る。

「二度とあのようなミスをしないよう気をつけます」

「書かないわけですかぁ」
コーヒーカップの持ち手の隙間で、クソブタハゲアブラツボの太い指が窮屈そうに動いている。
子供の頃、無邪気なふりをして、芋虫を踏んづけて潰した時のことを思い出した。

「今度あんなミスをしたら、反省文じゃなくて始末書だね」
そう言って、クソブタハゲアブラツボは上目遣いで私を見ながら、下品な音をたててコーヒーをすすった。

「このコーヒー、マズイな。木下の淹れるコーヒーのほうが、まだマシだぞ」
そう言ったかと思うと、クソブタハゲアブラツボのえた首の、たるんだ肉が、急に波立った。
立っている私の肩越しに向かって、大きな声で叫んだ。
「おい木下、なんだその服装は。部屋着で来たのか」

振り返って木下さんを見ると、首回りがルーズな白っぽいニットワンピースに、七部丈レギンスというで立ち。
木下さん、相変わらず ”しまむら臭” 漂ってるわぁ。それにしても七部丈レギンスって、木下さんの服の流行、何年前で止まってるんだろう。

と思ったあの時が、たしか十月の終わりぐらいだったから、この家に来て、そろそろ三ヶ月かぁ。

咲ちゃんがここに来たのが、今から二週間ぐらい前かな。歓迎会を兼ねた新年会、楽しかったなぁ。

それにしても綾乃さん、今どこでなにしてるんだろう。
クリスマスパーティで、あんなに楽しそうに笑ってたのに。

大掃除の最中、私の隣で窓を拭いていた綾乃さん。
「ここ、出ていこうと思うの」
雑巾を規則正しく右から左、左から右に動かしながら、綾乃さんが言った。
「なんで?」
と私が手を止めると、
「なんでかなぁ」
綾乃さんは、自分でも答えがわからなくて途方に暮れる少女のような表情で私を見た。
その翌日、綾乃さんは出て行った。


今、この家にいるのは五人。
そのうち四人が女性。

その時その時で人数は変わり、女性も入れ替わる。
唯一の男性が、向井さん。
ここは向井さんの家。

古い日本家屋で、いわゆるお屋敷と呼ばれるような大きな家だ。
向井さんは、幼い頃に両親を亡くしたと聞いているけど、それからも一人でずっとこの家に住んでいるそうだ。

女性の中で、一番長くここにいるのが、美雪さん。
といっても、いつからかは、わからない。
「どれくらいここにいるんですか?」と、引っ越して来た当日、美雪さんに聞いてみたけど、美雪さんは「どれくらいかしら」と首を傾げて、そしてその首を元に戻してにっこり笑った。

普段は口数が少ないけど、お酒が入ると、ちょっとだけおしゃべりが増える。
名前のごとく透き通った白い肌をして、頬に血色がそのまま出る、その様子がなまめかしい。

てんまりちゃん、そこの磯辺焼きとって」
そう美雪さんに言われると、それをもっと聞きたくなって、
「美雪さん、ポテトサラダは?」「美雪さん、タコのマリネは?」と言ってみる。
でもたいていは、「ポテトサラダ今いらない」とか「タコ好きじゃないの」
とか言って断られる。


美雪さんの次に長くいるのが、漆原さん。
一年いるかいないぐらいかな、たぶん。

真面目な人。
私の物差しなんて、時と場合で目盛りがぶれぶれで、あてにならないけど、漆原さんの物差しは、きちんとしてる。この世に、道徳的、教科書的、模範的物差しがあるとしたら、それは “漆原さん物差し” だろう。
かといって、誰かが ”線” を超えたからといって、けたたましい笛の音で警告を与えるような、そんな思慮のない人ではない。

漆原さん、歳いくつぐらいなんだろう。
三十代真ん中、もしかしたら四十いってるかな。
でも肌とかすごいきれいだし、普段あまり体の線が出る服を着ないせいでわかりづらいけど、結構いい体してる。

黒眼鏡巨乳女子。私は漆原さんを、こっそりそう呼んでいる。


そして、二週間前にやってきたのが咲ちゃん。

この二週間ずっと、ハーフアップの髪型をしている。
バレッタも毎日同じ。薄ピンク色のリボン型。

咲ちゃんとは、彼女が来てまだ二週間にも関わらず、いっぱい話をした。
夜、居間でテレビを観たり観なかったりしながら、どちらかがそれぞれの部屋に戻るまで、だらだら話した。

話したんだけど…
咲ちゃんについて、何も表現する言葉が浮かばない。
これはどういうことだ??
ハーフアップのテレビっ娘、としか出てこない。
まだ二週間だもんね。


そして向井さん。

イケメン。
四人の女に囲まれて住むような男、そりゃあイケメンでしょやっぱり。
そこは外してない。

私と向井さんが出会ったのは、深夜のファミレスだった。

クソブタハゲアブラツボに小言を言われたのが、まだ午前中のこと。
あの日は一日かけて、嫌なことのトーテムポールが積み上がった。

クソブタハゲアブラツボから解放されて一息つくと、隣の部署の船田さんが、ちょっとちょっとと手招きしているのが見えた。
いつもそうだ。船田さんは何かあると、自分が動くのではなく、ちょっとちょっとで相手を呼びつける。

「なんですか船田さん」
私が近づいて行く間も、船田さんは手招きをやめない。
空いている隣のデスクの椅子に座るよう、私に目でうながす。

あーこの話、長くなるな。

船田さんは、背筋を伸ばして両手を頭の後ろに回した。
長い髪を後ろで一つに結わえるとき、船田さんの目は、いつもあらぬ方向を向く。そのたびに、どこ見てるの?とツッコミたくなる。

社内を見渡すと、四十歳を超えた女性は、たいてい髪を短くしている。
船田さんは、歳の割には、髪にツヤもコシもある。だからなのだろうけど、腰まで届くようなストレートのロングヘアを揺らしながら出社してきては、始業後、あらぬ方向を見ながら髪を結わえるのだ。
髪の長さや、その黒さ、そのストレートさに女らしさを見出す、船田さんはそういうタイプの女性だ。

「大変だったね」
そう言いながら、船田さんはクソブタハゲアブラツボの真似をして、口をへの字に曲げて、パクパクやって見せた。

「ミスした私のせいですから」
という私の言葉は耳に届いていないかのように、船田さんは既に話し始めていた。

「自分の会社の近くで待ち合わせって、普通やらないわよね。人の目があるから」

船田さんの話が頭に全然入ってこない。
クソブタハゲアブラツボの毒にやられたのだろうか、まだ出社して一時間なのに、既にどっと疲れていた。

毒…

毒ガエル。

アイツの首のたるんだ肉は、カエルのそれに似ている。
クソブタハゲアブラツボに、もう一つ加わりそうだ。

クソブタハゲアブラツボガエル。

糞豚禿油壺蛙。

糞豚禿油壺蛙。


「あれ坂谷君の新しい彼女ねきっと」

ぼんやりと遠くで聞こえていた船田さんの声が、急に鮮明に、糞豚禿油壺蛙の文字を蹴散らして飛び込んできた。

「ほら坂谷くん、夏ぐらいに、当時付き合ってた彼女と別れたって言ってたでしょ」

その “当時付き合ってた彼女” が私です。

「そうでしたっけ」

「ふられちゃいましたって笑ってたじゃない」

そう。“ふられちゃいました” と “笑う” がセットの場合、それは “余裕” として他人の目に映る。
そりゃあそうだ。彼が私をふったんだから。

「手こそ繋いでなかったけど、あの距離感は付き合ってるわね。一緒に歩いてる微妙な距離感で、そういうのわかるのよ私。あれはもう、そういう関係ね」

クソブタハゲアブラツボガエルの小言の次がこれか。

なんて日だ!と叫ぶには、まだ一日は始まったばかり。

ちょっとちょっとと手招きしたりとか、髪は女の命的な感じとか、「そういうのわかるのよ私。あれはもうそういう関係ね」と言うところとか、なんかやっぱり感覚が古い。

船田さん、あなたの感覚は古いです。
そう心の中で呟きながら、自分のデスクに戻り、“新しい彼女” という言葉が、ぐるぐる頭の中で回るのに堪えながら、午前中をやり過ごした。

昼の休憩時間。
ちょっとちょっとと、船田さんにランチに誘われたけど、一人になりたかったから、会社から一駅分離れたカフェに足を運んだ。
どうせ船田さんの話は、“坂谷くんの新しい彼女” に決まってるんだから。

珍しく窓際の席が空いていた。
エッグサンドを待つ間、窓の外を行き交う人の流れをぼんやりと見ていると、隣の席の会話が耳に入ってきた。

「彼の赤ちゃんにシルバースプーンを贈ったの」

女性の二人組。職場が近くにあるのだろう、首から社員証を下げている。

彼って、付き合ってる男性のことだよね。
その男性の赤ちゃん?
どう見ても、隣の女性が産んだのではなさそうだ。
どーゆーこと??

「奥さんから、誰からもらったんだって問い詰められたって言ってた」

なるほど。そういうことか。
このゆるふわ巻き髪女子の彼は、結婚しているのだ。その彼の奥さんが出産した。

「奥さん、前から彼の浮気を疑ってるから、そういうとこでも疑り深くなるんだろうね」

なんか他人事のように言ってるけど、その奥さんの浮気臭覚、麻薬探知犬のそれより鋭いよ。
完全にマークされてるよ。
そのゆるふわ巻き髪を、ゆるふわにしておく余裕なんて残されてないんだよ。

「どこのシルバースプーン?」
反対側の女性が聞く。

えっそこ? 
大事なの、そこ?

ゆるふわの同僚も、浮気探知犬の恐ろしさを知らないのだろう。

「ティファニー。すっごいかわいいの。自分で使いたいって思ったもん」
ゆるふわが、食後のミルクティを口に運びながら言った。

「ティファニーのだったら絶対かわいいよね」
わかった。この同僚は、ゆるふわの話には興味がないのだ。
ゆるふわの付き合っている男には、妻と生まれたばかりの赤ちゃんがいる。そしてその妻は優秀な浮気探知犬。ゆるふわには遅かれ早かれ修羅馬がやってくる。
そんなことは、この同僚にとってはどうでもいいことなのだ。それより、ティファニーのほうに興味がある。そういうことか。

なんて考えていたら、エッグサンドがやってきた。
サンドイッチを持ち上げると、ずっしりと卵の重みを感じる。
窓の外を見やりながら、エッグサンドを頬張る。

母親と小さな女の子が、手を繋いで歩いている。
女の子の毛糸のマフラーが、風に煽られてほどけて、だらんと前に垂れ下がる。
母親がそれを直す。
するとまた、風がマフラーを引っ張る。
母親がそれを直す。
女の子は寒そうに肩をすくめて、風と母親のなすがままになっている。
とうとう母親が、両手に持っていたカバンや袋を地面に置いて、女の子の首の周りでマフラーをぎゅっと縛った。
その両手には、苛立ちが込められていた。

幼い頃、いつも右手は母と繋いでいた。
左手は父と。

滅多に繋がれることのない左手が握り締められると、いつも必ず、どこか楽しいところへ連れて行ってもらえた。
遊園地や水族館、海やアイスクリーム売り場。
左手が繋がれる度に、幼い私は、父の手の温もりを握りしめて、ワクワク感でいっぱいになった。

去っていく親子の後ろ姿を目で追いながら、手元のサンドイッチを口に運ぼうとした時、ぼとっと中身が落ちた。
慌ててテーブルの上のナプキンで、胸の真ん中についた卵を拭き取る。
が、拭き取れない。

その日、私が着ていたのはアンゴラのセーター。
アンゴラの毛に卵が絡まって、拭き取ろうとすればするほど、アンゴラの毛が黄色いペーストにまみれて固まっていく。

「来週一泊で旅行いくの。奥さんが実家にいるうちじゃないと旅行なんてできないから」
「どこ行くの?」
「近場の温泉かな」
「温泉いいなあ。温泉入ったあと、ジェラピケ着たら、最高に癒されそう」「ジェラピケいいよねえ。でも、かさ張るから旅行には持っていかないかな」

浮気探知犬よ、彼女たちのジェラピケを喰い千切ぎってやってください。

セーターの胸の真ん中をぎゅっと握った瞬間、マフラーで首を締め上げられていた女の子の顔が浮かんだ。

午後は忙しく過ぎていった。
忙しくしながらも、胸のアンゴラ卵を見るたびに気が滅入ったし、船田さんの “坂谷くんの新しい彼女” という声が、頭の中で繰り返し繰り返し響いた。

気がつくと、七時を回っていた。
帰り支度をしてトイレに向かうと、その手前の給湯室に木下さんがいた。
木下さんは、皆が使ったコーヒーカップやら湯のみやらを洗っていた。

「木下さんが残業なんて珍しいですね」

「昨日もしましたよ」
無表情で、声にも抑揚がない。

木下さんという人は、シンプルに表現すると、蚊帳かやの外の人。
みんな木下さんとは積極的に絡もうとしない。避けたりイジメたりするわけではないけれど、関わることもしない、そんな感じ。

理由はたぶん、木下さんがこの調子だから。
無表情な上に、会話も淡白。喋るときは、ほとんど口を開けずに、下唇だけを動かす。

四十代後半。独身。
顔は、お世辞にも、いい表現を絞り出すことができない。
そしてあの腫れぼったい一重瞼で、じっと見られると、ケチがついたような、ツイていないような、損したような気持ちになるのだ。
陰でみんなが、木下さんを疫病神と呼ぶのは、そのせいだろう。

あのクソブタハゲアブラツボガエルでさえ、木下さんに対して一方的に注意こそすれ、私に小言を言うときみたいに、木下さんとやり取りをしようとはしない。
さすがの毒ガエルも疫病神とは関わり合いになりたくないらしい。

「木下さん、いつも服どこで買うんですか?」

木下さんが挙げたのは、二十歳はたちそこそこの女の子が買うような、量産型の安い店だった。
四十代後半で、そんな安っぽいものばかり着ているから、クソブタハゲアブラツボガエルに、部屋着なんて言われるのだ。

「それ、若い女の子がよく買う店ですよね」
「ああ、まぁそうですね。私、そういうの気にしないから」
「てっきりしまむらだと思ってました」
「あ、しまむらでも買いますよ」
「へえ、そうですか」
「課長に叱られてましたね。でも課長、急に私に怒鳴ってくるからびっくりしましたけど」
崩れた豆腐みたいなキャラクターのついたコーヒーカップを手に、木下さんが言った。

今朝のことを言っているのだ。
「叱られてましたね」こういう言わなくてもいいことを言って、相手を不快にさせるのが木下さんだ。それはいつものこと。

ただ、叱られていた私と、同一線上に自分を並べた木下さんの発言が、気に入らなかった。
まるで、クソブタハゲアブラツボガエルを前に、私と疫病神が同列であるかのような感じがして、不快感を覚えた。

「木下さん、制服にしたらどうですか?他部署でもパートさんや年配の女子社員で、制服の人いるじゃないですか。制服だったら、出社する時に部屋着だろうがなんだろうがいいわけだし。好きなもの着られますよ」

すると木下さんが、珍しく声のトーンを少しだけ上げて、言った。
「天羽さん、なんでそんな意地悪言うんですか。私のこと、嫌い?」

そう、私は意地悪をしたのだ。

クソブタハゲアブラツボガエルに毒を吹きかけられ、“坂谷くんの新しい彼女” に頭の中を占拠され、アンゴラ卵が胸の真ん中にきたならしく張り付いて、嫌なことだらけの一日だったから、木下さんに意地悪をしたのだ。

「嫌いも好きもないですよ」
そう言うのが精一杯だった。

「そうですか」
木下さんはそう言うと、水道のレバーを上げた。
ジャーっという水の音が、静かな給湯室に響く。

「課長のコーヒーに、雑巾絞ってましたよね」
口を少しだけ開けて、下唇だけを動かしている。
その間も、蛇口から水が流れ続ける。

「木下さん、変なこと言うのやめてくださいよ」
それまで聞いたことがないような低い声でそう言うと、私は給湯室をあとにした。

意地悪をしたら、意地悪を仕返された。

それだけのこと。
ただそれだけのこと。


気がつくと、ファミレスにいた。

ふと時計を見ると、0時を回っている。
何時間もここで、私は一体なにをしているのだろう。

何杯目のコーヒーだっただろうか。くるくると螺旋を描いてコーヒーに混じっていくミルクを見ていたら、急に空腹を覚えた。
気を取り直して注文をした。
しばらくすると、目の前にエビピラフが置かれ、次にウエイトレスがオニオングラタンスープを置こうとしたタイミングと、私がコーヒーカップを移動させようと手を伸ばしたタイミングがぶつかった。
オニオングラタンスープを持つウエイトレスの腕が傾き、あっと思った時には、テーブルにスープがこぼれていた。

「なにするのよ!」
カッとなったことに数秒遅れて気づくぐらい、即座に口から怒鳴り声が飛び出ていた。本当にカッとなったのかさえ、今となってはわからない。
怒鳴ることができる機会に飛びついた、ただそれだけかもしれない。

ウエイトレスは慌てて謝った。

「火傷したらどうするのよ!」

ウエイトレスが繰り返し謝る。

「なんでこんな目に合うのよ!」

使い終わった砂糖の袋やミルクの容器が、テーブルの上に散らばっている。
それが自分の荒れた心と重なって見えて、ひどく惨めな気持ちになった。

「なんでこんな目に合うの?なんで?」
そう呟いたら泣けてきた。

「布巾とってきます」
と早口で言って、ウエイトレスがいなくなった。

ひどく感情が高ぶっているのに、同時に、ものすごく冷静な自分がいた。
わんわんと大声をあげて泣き出したい衝動が、胸の内から突き上げるのを感じる一方で、恥ずかしい、このあとウエイトレスに対してどんな対応をすればいいのか、などが頭の中で巡った。

顔を隠すように当てた両手が下ろせない。
どうしよう。

「オニオングラタンスープ、僕も好きなんだよね」

はっと顔を上げると、目の前に男性が座っていた。

誰?
何?

どういう展開??

混乱する思考の中で、少なくともこの気まずい状況から救われたという安堵感が、この展開に乗るよう私をうながす。

「店員さんと手がぶつかっちゃって…」
取り繕うように言い訳をした。

先ほどのウエイトレスが布巾を持って現れた。
男性を見て、一瞬戸惑った表情を見せる。

男性は、「僕がやるから」と言って、彼女の前に手を差し出した。

「でも…」
ウエイトレスが布巾を握りしめる。

「大丈夫だから」
男性が、穏やかな声でウエイトレスを見上げてそう告げると、彼女は、そっと布巾を男性に渡した。

「なんでオニオングラタンスープを頼んだの?」
こぼれたスープを布巾で拭きながら、男性が言った。

「なんでって、メニュー見てたら食べたくなったから…」

「さんざんな一日だったってこと?」

私は姿勢を正すと、男性をじっと見つめた。

「なに?僕、なんかいけないこと言った?」
汚れた布巾をテーブル脇に置くと、男性も同じように私をじっと見つめた。

午前0時、急に目の前に現れた黒いタートルネックのイケメン。

優しい声で、なにくわない表情で、なにげない会話運びで、私の “さんざんな一日” について聞き出そうとする。

なにこのイケメン。ホストかなんか?
深夜のファミレスで、こじらせてる女を見つけては、すっと前の席に滑り込んで、こうやって声をかける。自己紹介や挨拶無しに、どこかの会話の延長線を引っ張ってきたみたいな何気ない会話運び。一瞬身構えた女性も、目の前のイケメンの、計算された何気なさに思わずガードを下げる。
そういうの狙ってるの?

「なんでそこ座ってるんですか?」

「なんでかな」
こういうすっとぼけ方が、かっこいいとでも思っているのだろうか。

「なにかの勧誘ですか?」

「違うよ」

「じゃぁなんですか?」

「僕がその理由を言ったら、君は間違いなく傷つく。でも君は、傷ついたことを知られたくなくて怒って見せる」

イケメンだからってなんでも許されると思うなよ。

「あなたは自分がかっこいいことを利用している」
私は言った。

男性は目を閉じて一つうなずくと、背もたれにあずけるように上半身を後ろに倒した。

「かわいそうだったから」

私は彼を睨んだ。
「かわいそうと言われて私は傷つく。でもそれを隠すために怒る。そういうことですか?」

「考えてもみなよ。深夜に女の子が一人で泣いてたら、ほっとけないでしょ。それだけだよ」

「そうですか。もう大丈夫です。ありがとうございました」

今度は始末書だな。
なんでそんな意地悪するの?私のこと嫌い?
あれ坂谷君の新しい彼女ね。
雑巾絞って入れてましたよね。
気持ちが冷めたんだ。もう一緒にいたいと思えない。

かわいそう。

そういうの、もう聞きたくない。
ほっといてほしい。

「もう大丈夫ですから!」
そう声を荒げた瞬間、
「お待たせしました」
とウエイトレスが現れた。
お盆の上には、オニオングラタンスープが湯気を立てている。

「僕、コーヒー」
男性がウエイトレスに言う。

なるほど。いなくなる気はさらさらないようだ。

「お名前、なんですか?」
男性を見据えて私は言った。

「こういう場面では、男のほうから聞くのがよくあるパターンだよね。ねえ名前なんていうの?ってさ」

「いつもそうなんですか?」

「いつもこんなことしてないよ。それに、こんな時間にこんなところで、女の子が怒鳴ったり泣いたりしてる場面、そうそうないからね」
嫌味なのか、からかっているのかわからない。

「私だって初めてですよこんなの。夜な夜なファミレスで店員さんを怒鳴ってるわけじゃありませんから」

「そうなる理由があったんだね」
私のオニオングラタンスープに視線を落として男性は言った。

つられて私も、目の前のオニオングラタンスープに目をやった。
パンにスープがしみて、溶けたチーズの香ばしい匂いが立ち上る。

「このスープ、好きって言ってましたよね」

「ああそうだね。子供の頃、母親がよく作ってくれたんだ。しかも本格的なやつ。器の上をドーム型のパイ生地が覆ってて、それをスプーンで崩すと、中から熱々のスープが湯気を立てる」
男性は、にっこり笑った。

子供の頃もきっとイケメンだったのだろう。

「私は大人になるまでオニオングラタンスープなんて知りませんでした」

母が作るものは、父の好みに合わせて和食が多かった。
父は魚介類が好きだった。しかも刺身が一番の好物。
まずは刺身をつまみながら日本酒を飲む。そのあとは、煮物数品で済ませる日もあれば、天ぷらや生姜焼き、豚の角煮やフライものなどのメインと一緒に、お猪口からグラスに持ち替えて、ビールを飲む日もあった。

右手に母、左手に父。
両手を繋がれて、食事に行く。
お子様ランチのピラフに立てた旗。あれを抜く瞬間が、いつも楽しみだった。
それはいつも洋食屋だった。
刺身や煮物なんて、並んではいなかった。テーブルの上にあったのは、酒やビールじゃなく、コーヒーだった。


コーヒーが運ばれてきた。
男性はそれを口元に運ぶと、ふと手を止めて言った。

「オニオングラタンスープってさ、他のスープとは違うと思うんだよね。魔法のスープだと思うんだ」

「魔法のスープ」
私は呟いた。

「これ食べると、なんか元気にならない?落ち込んだりヘコんでても、これ食べ終わる頃には、ちょっとだけ元気になってる、そんな感じ」

「だから私の今日が、さんざんな一日だったと思った…」

「そうだね」

かじかんだ指をポケットに滑り込ませるように、こわばった体をゆっくりと湯船に沈めるように、私の疲れた心が魔法のスープを欲していた、そういうことなのかな。

「それに、深夜に怒りながら泣く人って、やっぱりさ、それまでがさんざんな一日だったんだんだろうなぁって思うでしょ」
そう言って微かに笑うと、男性はコーヒーに口をつけた。

彼の言う通りだ。
スープのしみたパンは、私の胃を温かく満たしたし、チーズの溶けたスープを一口一口すくうたびに、私の中のしぼんだ部分が膨らんでいくような感じがした。

「私、悪いことをしたんです。それを見てた人がいる。みんなと一緒になって馬鹿にして見下してた人に、見られてたんです」

本当に言いたいことはそれではない。

「それできみは困ってるの?」

「困ってません。木下さんに見られたからといって、なにも困りません。誰も疫病神の言うことなんて取り合わないから」

「じゃあいいんじゃない?」
コーヒーカップがソーサーに収まるカチャリという音が、男性の手元から響いた。

私は首を横に振った。
イヤイヤをするように、左右に大きく振った。
そうしていたら、涙が出てきた。

繋いだ左手の先は、父だと思っていた。
ずっとそう思っていた。

でも違った。

それは母の好きな男だった。


「僕のとこに来ない?」
男性が言った。

「こんなふうにみっともなく泣いてるからって、セックスできると思ったら大間違いですよ」

彼がそんなことを求めているのではないことは、わかっていた。

彼は笑って言った。
「美雪さんも漆原さんも、それから綾乃さんもいるから大丈夫」

「なんですかそれ。キャバクラかなんかですか。それとも、もっと色々しなきゃいけないような店ですか」

声をあげて彼が笑った。
「みんなきみのこと、好きになるよ」

それが向井さんとの出会いだった。


#創作大賞2022


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