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ゴミを部屋に置いたまま忘れてしまうと土に還ってしまい、何を拾ったのかわからなくなってしまいます⑦

 

 私の家に妙なものが多かったのは、母のせいでした。

 1964年5月。10月にさし迫った東京オリンピックに向けて、あちこちで改装工事が進められていた東京、銀座。当時26歳で、駆け出しの編集者だった私の父は、露頭に迷っていました。数年前にとある出版社に就職した彼は、ほんの数ヶ月前に兄の紹介で少しだけ条件の良い別の雑誌社へ転職したのです。ところがそこがすぐに潰れてしまった。この日、父は再び兄の知り合いの口利きで、最近創刊したばかりだという雑誌の編集者に会うために、銀座の古い雑居ビル一階の喫茶店に来ていました。饒舌な男性がまくしたてるのを黙って聞いていただけで、あっさり採用されたそうです。雑誌「平凡パンチ」創刊4号目から、父は仕事にありつきました。

 長野県の小さな村の教員一家の末っ子で、人付き合いが悪く無口な父は、この雑誌の求める刺激的な記事を書くため、気難しい和服の大作家や女たらしの俳優のあとについて、雀荘やナイトクラブを徘徊しはじめます。その少し後、美大を卒業した母が、「超現実主義」的な絵を出版社に持ち込み、なぜか絵ではなく文章を気に入られて入社。そして68年、ふたりは結婚しました。


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 私の出産を期に退職した母は、当時のヒッピームーヴメントの影響か、有機農法の自給自足団体に入っていました。手縫い、手編み、機械編み、自分で染めた布、糸、自分で絞めた動物の皮、とヒートアップ。団体の人々が共同生活する地方の農場へ祖母と入れ替わりで通って、野菜や家畜を育て、収穫、屠殺までします。私もたまに連れて行かれたのですが、そこは巨大な集落で、むさ苦しい長髪の複数の男女とその子供たちが泥だらけの格好で暮らしていました。牛舎、豚舎、鶏舎をはじめ、建物や設備もすべて自分たちで伐採した木で建ててあり、人間の住居は数軒が廊下で繋がる複雑な構造で、中央に巨大な飯場のような大きな木のログハウスがあり、その共用部分に、土間になった食堂と、風呂やトイレもあるのです。私はこの、食堂テーブルの上の、丸々と黒光りするハエがびっしりついたままぶら下がったハエとり紙と、穴を掘って貯蔵タンクを備え付けた地面の上に、四角い穴を開けた木の板をのせ、周りを囲っただけの汲み取り式トイレが苦手でした。特にトイレは、鼻をつんざくような刺激臭の中で息をとめ、大人用に開いた大きな穴の上で、下を見ないように、落ちないようにと足を震わせながら必死にしゃがまなくてはならず、ことが終わると、堆肥にするため分解されやすい素材の、皮膚が切れそうな硬い便所紙で拭いて、脇に置いてある「わら」をひとつかみ上からかけておくのですが、貯蔵タンクいっぱいの堆肥のもとが穴から盛り上がってきていることもあり、毎回大変に憂鬱でした。渡り廊下で繋がったここの建物には、ハシゴをのぼって天井に空いた穴からしか上の階に行けない場所や、中に階段のついた複雑な部屋、隠し部屋のようなロフトや屋根裏などがあちこちにあって興味深かったのですが、うっかりハシゴを登って覗き込むと、暗い中に毛むくじゃらの男が寝そべっていたりするので怖いのです。そもそも、通いの人間には別の棟に専用宿舎があり、そこで暮らす人たちの住居には勝手に入れません。どこにいってもハイテンションの母と違い、そこに住んでいる子供たちとのスペックの違いに怖気付いていた私は、たいていは1人でぶらぶらしていて、たまに他にも東京から来たひ弱な子供がいると一緒に、鶏小屋で卵をとったり、軽トラの荷台に乗って畑の草むしりに行ったりしました。なので、結局建物の全貌を知ることはできなかったのです。母は私のことは気にも留めず、勝手知ったる我が家のようにこの集落を歩き回っていて、ここにいる間はほとんど顔を合わせません。また、彼女は農場で暮らす年下のボーイフレンドと交代で4tトラックを運転し、都心の会員に食材を配送してまわってもいて、うちの冷蔵庫にはよく豚の頭が入っていました。東京の他の会員にはきちんと切り分けられた色々な部位の肉を配ってまわっていたので、もっとディープな立場の証として母は豚の頭を所望したのでしょうか。母の友人一家を招いて「豚の頭のまるごと鍋」の晩餐会が開催されるのですが、豚の顔の毛はやたらと硬く、鼻を真っ直ぐ包丁で削った、穴の二つ開いた厚さ1センチほどの楕円形は齧ってもほとんど味がしません。父は恐ろしかったのか、あまり家に近寄りませんでした。


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 手前の皿に乗っているのが豚の頭


 母は、遊びに来る私の友人の前にパンツ一丁でほがらかに登場するかと思えば、気に入らないことがあると手がつけられないほど激昂するなど、ちょっと過剰なところがありました。彼女のいる我が家には、泥のついた野菜、自家製のパン、石膏像、描き途中の絵、草木染めの布、分厚い画集、文学全集、奇妙な絵の本、いろいろな漬物、天体望遠鏡、裸の女がひしめきあう雑誌やカレンダー、豚の頭の骨、バイクのヘルメット、犬たち、猫たち、アヒルやニワトリ、おばあちゃんと妹たち、がいて、私は、テレビや漫画や畑や田んぼや犬や猫や祖母や妹とたわむれ、その暇つぶしに両親の本棚や洋服だんすやレコードをあさって育ったのです。

 小学校高学年にもなると、私は母からこの数年間、半強制的に着せられてきたチェックのネルシャツ、サスペンダーとジーンズというユニフォームに心底うんざりしていました。パステルカラーのパーカーとウエストギャザーのミニスカートもいいよね。と思っていたのですが、母は「ダッサ」の一言で取り合ってもくれません。中学生になった私が、父が会社から持ってきた雑誌「オリーブ」の、色々な女性アイドルが服を着こなす記事を見ていると、いつの間にか母が横から覗き込んで、どの子が一番いい?と聞いてきたのです。納得のいかない答えを言おうものなら「ヤラシイ」「この上目遣い、こんなの可愛いと思ってんの?」と、こきおろしてくるので恐ろしい。それに私の好きな女性アイドルは、そのページにいません。なぜか恥ずかしくて当時誰にも言っていませんでしたが「少女隊」のデビューシングルを私は持っていました。この、印象的なジャケット写真がとても好きだったのですが、でもテレビで歌うときはいつも変なドレスを着ていて、そのうちに興味がなくなってしまいました。


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 母は農場で大喧嘩をしたらしく、その団体を辞め、建築関係の資格を取るため横浜の職業訓練所に通いはじめていました。その頃、私を元町に連れて行ってくれて、雑誌「オリーブ」に載っていたような焦茶色でフエルトの山高帽と黒いドレスシューズ、それからオマケとして、真っ赤なエナメルのバレエシューズまで買ってくれたのです。私はその帽子に、町田のファッションビルで買った錆びた鉄色の大きなレーヨンのシャツと、母のお下がりの、深緑色で裾のすぼまった巨大なオーバーオールとドレスシューズをあわせて学校遠足のディズニーランドへ行きました。Gパンのサスペンタースタイルを卒業できて嬉しかったのですが、やはり肩からズボンを吊っていたことには気がついていなかったようです。じきに自分でも地元のファッションビルや、バーゲンの時には原宿ラフォーレや渋谷パルコpart3まで遠征して服を買うようになったのですが、セール品でも私にとっては高価でそうそう買えませんでした。また、母の長すぎた呪縛のせいなのか、元からの私のセンスなのか、自分で買うと途端に、ベーシックなものより変なもの、地味な色より突飛な色を選びたくなり、しかもできるだけ安いものとなると、確実に酷いものばかりが手元には増えていきました。

 母が癌で亡くなったのは高校一年生の春でした。彼女のクローゼットは思ったよりずっとスッキリした状態で、着ているのをあまり見たことのなかった、ほんの数着の高そうなスーツやコートの奥から、カットオフしたデニムのホットパンツ、分厚い皮革とがっちりした金具のベルト、フォークロアな小花柄のコットンチュニック、クレイジーパターンで母が機械編みしたニットなど、私が生まれた当時の、少し若い頃の母の服も良い状態で出てきました。

 母の残した色褪せたデニムのホットパンツは、股上が浅くて形がよく、上級生に誘われて行ったパンクバンドの野外ライブで履いていたら褒められました。私は気を良くして、母のクローゼットを掘り起こしていろいろ試してみたのです。どうやら、町田のファッションビルに入っているような、高校生の自分が買えそうな金額の新品を扱う店の服は、買った時はいいのですが、ちょっと着ると毛玉になったりよれたり、すぐにみすぼらしくなるし、シーズン毎に似たようなものが多い。母のクローゼットから出てきたような、良い風合いの、荒っぽく使ったり汚れてもさほど問題ない、人とお揃いにならないようなものは、古着屋なら手に入る。と気がついたのは、原宿シカゴでフリンジのついたスエードのショルダーバッグと、アメリカ製のガーゼの白いチュニックを買った時だったと思います。古着屋にはたくさんの選択肢があって、突飛なものでも比較的安く試せるのも素晴らしかった。

 古着の魅力を知った私は、同じような趣味の友人達と、予備校に停めた共用自転車で新宿から、原宿、渋谷、下北沢などの古着屋を巡回し、大都会を攻略したような気でいました。でもまだこのときは、古い物に取り憑かれてのめり込んで行く、そのほんの入り口に立ったに過ぎなかったのです。


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