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ことばのおもみ。「肝数値高男」さん。

朝から心が震えてました。

最近フォローさせていただいている方の記事をまず朝に読むことが
日課になっています。


毎日投稿1200日(!!)という、並々ならぬ偉業を達成している
「肝数値高男」さん。ご自身でもおっしゃられている通り、
大の任天堂好き
もうそれだけでなんだかぼくも嬉しくなってしまうのだけど
ぼく自身、「なのがそんなに嬉しく思うのか」ってわからないんですよね。

ぼくが作った会社でもないし、ましてやお仕事として関わったこともありませんし。世の中に溢れすぎて埋没するのが当たり前のコンテンツの一つとしてゲームというポジションがあると思いますけど、その中でもスタンダートとして「マリオ」がいます。

マリオってマリオじゃん?くらいの説明でマリオが認識されほど、ゲーマーにとっては語る必要のないマリオ。
だからこそ「マリオ」について語れる人ってそうそういないんじゃないかって。、

だって”マリオ”って聞けば誰だってなんとなくわかるものだと勝手に感じてて。
それが本当はすごいことなのですけれど。

ぼくがいかに日常的に「アタリマエ」にマリオに触れ続けていたから見えなくなっていたんですよね。

肝数値さんは仕事帰りにマリオTに着替えて映画館で4Dx3Dのスクリーンで初日に観にいくという「自らが体験する」ことで「マリオの映画」ってこういうものなんだよって教えてくださっています。そして「願わくばマリオがもっともっと大きくなっていって欲しい」ということもお伝えしております。

「スーパーマリオ」は名前は知っているけれども、どんなものなのか実はよくわかっていないという、いわゆる「テレビゲームを普段やらない人」でも十分すぎるくらいに楽しめる内容だと思うし「スーパーマリオ」という巨大コンテンツの良き入口になること間違いないと思います。

アレ観た報告#3より一部抜粋。



「スーパーマリオ」が誕生して40年。日本のみではなく、世界でゲームをする人たちを中心に「マリオ」は十分に知られている存在なのではと俺は思うんですけれども、決して今の状況であぐらをかかないで、さらに前進する姿勢が本当に素敵だと思います。

アレ観た報告#3より。

コンテンツって映像でも音楽でも、シリーズが続けば続くほど、「売れなくなる」ものです。
海外ではよく認識されていることなのですが、「望まない続編」という考えがあります。シリーズの第一作が最高で、それを超えるおもしろさは永遠にありえない、とする思想です。まぁあちらでは「初めよければ全て良し」の文化なので、やたらに「新製品」とか「新作」とか打ち出したりするのですけど。

「新」を求めらていく中で「何かが定着する」こと自体、向こうではすごいことで。任天堂では「マリオ」に「ゼルダ」「ポケモン」「スプラトゥーン」などが
たくさん受け入れらている事実。

肝数値さんがおっしゃられている通り、任天堂は「今の状況にあぐらをかかかないで、さらに前進する姿勢が本当に素晴らしい」んです。

普通なら、一度何かが爆発的に売れたとしたら、それを崩さないように、いつまでもあの時と同じように繰り返すことが求められます。せめて変えられるのは
「バージョン違い」程度で。バリエーションが増える?みたいなものかな?

だから、見せかけの「変化」で誤魔化して
どうにかこうにかやり過ごしている気がします。

それが「望まない続編」的な立ち位置に追いやられるコンテンツ。
「新」とつけばそれでOKとする文化の正体。

マリオにも「NEW」はいっぱい付きますよ。
でも見せかけではないんですね。

マリオの、「遊び」がゲーム機でリリースされるたびに変わるので
遊び方が全然違う。リモコン振ったりタッチしたりグラフィックが変わって音楽も潤沢なものになってリッチなゲーム体験になったり。
特に「クッパ様」のいい旦那感が時代でどんどん変わって。
絶対的魔王としてだけではなくて、意外に子煩悩だったりしてね。
結婚式を「月で行う」なんてロマンティックなこと考えてたり。
体験してみないとわからないことだらけです。マリオというシリーズは。

全てはこの「体験」なんですね。

からだを通して、五感に伝わって繰り返し経験することで生まれるものが
「体験」肝数値さんは体験することの意味をよくご理解されていると思います。だからこそ、ご自身で体験されたことを、人に教えることができるのだと確信しています。だってさ、

「マリオ」の話を書いていたら、どうしても「宮本さん」の話を書かないわけにはいきません。このテキストを読んでいる方は「宮本さん」をご存知の方は多いかもしれない。2019年に文化功労賞を受賞された話題になった宮本茂さんという「スーパーマリオ」や「ゼルダの伝説」「スターフォックス」などを手掛けた我々ゲーマーは絶対に足を向けて寝ることができないゲームクリエイターの方がいます。

アレ観た報告#3より。

映画自体は全編通して楽しく笑える内容なんですけれども、クレジットで「Shigeru Miyamoto」の文字がスクリーンに表示された時に久しぶりに宮本さんのコンテンツに触れれたという喜びと、「スーパーマリオ」がこれだけ大きく、そして世界的なコンテンツになったということがとにかく嬉しくて泣きそうになっちまいました。

アレ観た報告#より。

ぼくは正直肝数値さんよりレベル高いので、リアルに「マリオ」と育ってきた世代。マリオが世界に受け入れられたことも、マリオが全然元気がなかった時も全部知っています。任天堂はマリオ=宮本さん抜きには語れないでしょう。

でも実際のところ宮本さんがゲーム中に登場したり、「俺がマリオを作ったんだぜ」って言いふらして本とかばかすか売り出してるわけじゃない。

あくまで任天堂の「宮本さん」であって、言ってしまえば「隣の会社のお偉いさん」じゃないですか。世界的な企業と言っても、誰が課長やっていようとも誰が会長だろうとも、あくまでそこの「商品」が大事なのであって。

宮本茂の文字を見るには、「ゲームをクリア」しなければわからないし、昔のゲームではクレジットにも名前が出ることはありません。「MIYAPON」とか書かれていたりしてね。今ではネットでなんでも出てきますけど、ネットでは情報は出てきますけど、「体験」までは提供できない。

文字として「宮本茂」として読むのと
経験を凝縮して頭に詰め込んで濃ゆい体験をした後に見る「宮本茂」って
まるで別物じゃないですか。ペラッペラのいいことなんて出そうと思えばいくらでも出るじゃないですか。キャッチーな言葉って意外に曖昧じゃないですか。

noteを書くとき、すごく気にしていることが、その一文に「どれだけの思いや感情や背景を乗せられるか」ってこと。そしてそういうnoterさんが大好きなのです。

ぼくにしかできない、その人にしか書けない言葉の決定権にAIは必要ありません。まぁちょろっと老害的な意見ですけども。ただ全部が全部言葉になり得るのかって考えるとちとむずかしい。それに心の矛盾まで言葉にする必要あるのかな。

今風だと「言語化」とかいうのかもしれませんけど、言葉にはできない
「言葉にならない」ものもありますよね。

言葉にならないけど、確かにそこにはある「感情」が名前を表記するための
文字列でしかない「宮本茂」に「とにかく嬉しくて泣きそうになった」

任天堂のゲームをしまくっていたからこそ肝数値さんは「宮本さん」の文字を見て、「とにかく嬉しくて泣きそうになっちまいました」って一言が出たんだと。
この一言に乗っかる重みが、自分でゲームをプレイしていたからこそ
生まれた重みなのだ。

この感情的な部分にぼくが「大の任天堂好き」という文字列を見るだけで「なんだか嬉しくなる」気持ちの正体かもしれません。


ほんといいクリエイターさんを知ることができてありがたい。
肝数値さんを教えてくださった長谷川さんにも感謝いたします。

そして肝数値さん。素敵なレビュー本当にありがとうございます!
六本木は行かないと思いますけど、映画は観たおしたいと思います!

ネタバレされたとしても、何回でも楽しめるのがいいコンテンツだと思う」は
ズッシリと重みのある言葉でした。

好きすぎて「アレ観た報告#3」10回ほど読みました。
レビュー数がおかしかったらぼくのせいです。

これからも素敵なコンテンツ、楽しみにしています!
ありがとうございました!


コケでした〜。


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