友の覚悟、臆病な心

ある日の出来事。たわいのない話をしていた日曜日の午後2時40分。ランチを食べ終えた私たちは、喫茶店に移動していた。
ランチで話し足りなかった職場の話や自分たちの周りのあれこれ。いつもと同じ話も時間が深まるごとに言葉のラリーが早くなってくる。
その流れだった。友が好きなことの話をした。
やりたいことがあったが、踏み出すか迷っていたこと。踏み出したこと。行動に移したことを後悔していないこと。私はこれが好きであると堂々と言えること。今の日常がとても満ち足りてること。
途中からだろうか。言葉が無限に生まれていたいたはずの私の脳内が止まったように感じたのは。

そこからは、晴々しい友の心の一方で、私の空には、いまにも雪が降るかのようなグレーの空が広がったようだった。

うまく笑えてる自信がない。頬の筋肉の弛緩に違和感を感じる。目線が下がり、喫茶店のカトラリーが目に入る。
急になんだか疲れてしまった。

いつからか、素直な想いはどこか苦手になった。
様々な経験や価値観が生み出し、次のステップに進むための脱皮と期待、それらは棘のように私の心に刺さる。

強くはっきりとした意思というものは、幾度とない葛藤やコンプレックスの上で成り立つものであると分かっている。
また、価値観の近い友であるからこそ、なおさらその言葉の重さが伝わってくる。
何かを代償にしてもいいと思えるくらいの、得たい何かが友にはあるのだろうか。そんなことを考えると、何も出来ていない自分との対比で、相手の影が大きく見える。
この、覚悟の強さから滲み出る素直な言葉と気持ちに怯み、私の心は締め付けられる。

ただ、この気持ちを、妬みや嫉妬という言葉で括ってしまいたくない。
友に対して心からの拍手と賛美を贈れないことの悔しさも同じくらい秘められてることがわかっているから。
応援したいのに素直に出てこない原因は、紛れもなく自分への劣等感だ。眩しくて熱い『それ』に触れる勇気がない。
承認欲求と自己肯定感の反比例で構成された私は、いつの間にこんなに臆病になってしまったのだろう。

困ったように笑って話す私の言葉は、友にどう映っているのだろうか。何を言ったかなんてもう覚えていないのに惨めな想いに包まれる。

どうやら友の覚悟という美しいものを前に苦しくなる心の対処法をまだ知らないのかもしれない。

それでも友と向き合う日を思うのだ。
友が自分と向き合ったように時間をかけて。
私という輪郭をなぞり、日常を呼び戻してくれる友に、花束のような言葉を贈るために。

友の覚悟が呼び水となり、私の不安が足元を濡らす。あとは土が固まるのを待とう。何回でも足踏みをして。


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