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AIカンファレンス

土曜日は、某翻訳者協会のAIカンファレンス(完全オンライン)に出席した。職場がスポンサーしてくれるのだからありがたい。

出席者も講師も、基本的にはフリーランスという立場で話しているためか、思った以上にAIや機械翻訳(MT)を敵視している感があり、少々面食らった。程度の差はあれ、どの講師も「悲しいけれどこれが現実だ」「どうすればいいか対策を講じるべきだ」というような語調で話をしていた。

いやいやいや、AI、MT、ありがたいじゃないですか。便利じゃないですか。これを使ってこれからさらに効率的に仕事ができそうじゃないですか。そういう活用法を情報交換し合う場じゃないんですか。そう思うのは私が気楽なインハウスという立場だからなのだろうか。

同じカンファレンスに参加していた同僚に週明けに感想を尋ねたところ、数年前にこの手のセミナーに参加したときは、みんな「AIなんて何もできない、人間の翻訳が数倍優れている、私達の未来は安泰だ」というような論調だったらしく、それよりは進歩したなと感じたそうだ。

変化へのリアクションにはいくつかのステージがあるという。今ちょっと検索した結果を見ると、バリエーションはあるものの大体が「denial, anger, bargaining, depression, acceptance」、またはそれに近いものだ。同僚の話を聞いて、AI時代の到来に対する翻訳業界の姿勢は、denaial、angerをやっと通過し、今はbargainingとdepressionに入っているということなのかな?とも思えた。

さて、ここからは、自分にとってのtakeawayは何だったのかを書き留めておきたい。

カンファレンスの中で、今後生身の翻訳者が生き残っていく上では、翻訳や通訳をする分野の専門知識を身に着け、その分野のオリジネーター(元のテキストの執筆者、講演者、発話者)になれるぐらいの力をつけないといけない、というような話があった。これは身につまされるものがあった。

たとえばキリスト教研究の本を翻訳するとしよう。教会には行ったことのないプロの翻訳家と、翻訳技術のない神学者がいた場合、高性能のMTを誰でも利用できる今の時代、後者がMTのポストエディットをしたほうがずっと良質の訳書を書ける。そういう話だと思う。村上春樹が優れた文芸翻訳者としても活躍しているのと同じ原理とも言える。

自分は常々、通訳は通訳、翻訳者は翻訳者以上ではない、という環境で仕事をしてきた。自分でそう思ってきた節もあるし、10年ほどそういう方針の上司のもとで仕事をしていた。言い訳するわけではないが、自分の生来の性格と、出産・育児を並行して行っていたことも関係し、腰掛け感覚があったこと、コミットし切りたくない気持ちがあったのは確か。

しかし今の仕事を始めてまもなく15年。私は(小手先の)通訳と翻訳の技術以外に、何を身に着けてきただろう。私がこれからその「オリジネーターになれるぐらいの力」を身につけるとしたら、何ができるだろう。

私の職場の分野は大変ニッチで、正直そのオリジネーターになるというのは少々無理がある。もともとの才能みたいなものも、自分にはないと思う。しかし、たとえばものを書くとか、人前で話すとか、そういう技術は勉強しても損にはならないような気がする。幸い、今回カンファレンスの登録料をカバーしてもらったように、私の職場にはprofessional developmentの補助金制度もある。来年度は、これを有効活用して、ライティング、コピーライティング、発音、スピーチ、アナウンスなどの講座を受けてみたい。

私も気づけば中堅ステージも半ばといった職歴であり年齢でもある。前述の変化へのリアクションのステージ、別のバリエーションでは、acceptanceの後にcommitmentがあるものもあった。AIやMTを受け入れるだけでなく、こうした技術と共生・協働をしていけるようコミットして、50歳を迎える頃には着実に成長していたいなと思う。

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