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引きこもりから抜け出したときの話

前にも書いたことがあるが、私は過去に引きこもりだったことがある。
当時は生きていることが苦痛で、毎日頭がすりつぶされそうなくらい悩んでいた。

今回は、かつて引きこもっていた当時のことや、そこから私がどうやって抜け出したかについて書いてみたい。
今現在、引きこもっていて苦しんでいる人や、そこからなんとか抜け出したいと思っている人は参考にしてほしい。
(なお、今回の記事は6000文字ほどある長文だ)


◎働くことが怖かった

私が引きこもったきっかけは、専門学校卒業後に、人生初のバイトをバックレたことだった。

当時の私は専門学校でダンスを専攻していたのだが、在学中にプロのダンサーとして食っていくことの厳しさを知り、その道は諦めていた。
かといって、いまさら一般企業への入社を目指して就職活動をする気にもなれなかった。
そもそも私は、学校を卒業するまでバイトというものをしたことがなく、働くことに対して、強い不安感を持っていたのだ。

それまでの学生時代で、私は基本的に「お客様」の立場だった。
あくまでも「教育」というサービスを享受する側であり、対価を得るためにこちらから何かを提供したことはなかったし、それに伴う責任とも無縁だったわけだ。

それはやはり「楽なポジション」だったと思う。
向こうから提供されるものをただ受け取って(時には受け取ったものに文句も言って)いれば、それで良かったからだ。

だから、自分が「提供する側」にまわることになったら、私は尻込みしてしまった。
「そんなこと、自分にはとてもできない」と思ったのだ。

結局、私は就職活動に類することを一切おこなわずに専門学校卒業の日を迎えた。
自分にできそうな仕事なんて何一つ思いつかなかったし、働くこと自体が怖かったからだ。

◎人生初の仕事をバックレてやめた話

それでも、「何かしなければ」とは思って私は悶々としていた。
だから、私は学校を卒業してから少し経った頃、思い切って近所の飲食店のバイトに応募したのだ。
「いっそ受からなければいいのに」と内心思っていたが、まだ若くて真面目そうに見えたからか、一発で採用されてしまった。

そこからは、不安と恐怖の毎日だった。
「失敗したらどうしよう、先輩や上司から怒られたらどうしよう」と心配して、いつもびくびくしていた。
仕事もなかなか覚えられず、役に立っているとはとても思えなかった。

そうしてある日、そんなストレスが限界を超えてしまう。
私は恐怖のあまり出勤できなくなり、無断欠勤してしまったのだ。

無断欠勤は「社会人としてやってはならないこと」とされているが、当時の私はもう身体が出勤を拒否するようになっていた。
それで、どうしても職場に向かうことができなかったのだった。

結果、私はそのまま職場に何も連絡をせず、仕事辞めた。
数日の間は職場から電話がかかってきたが、私は一切電話に出なかった。
そうこうするうちに電話もかかってこなくなり、それ以来、その職場には行っていない。

当時の職場からしたら、さぞかし迷惑したことと思う。
本当に申し訳ないことをした。
謝って済むことでもないし、いまさら言っても仕方ない話ではあるが、とにかく、私の「社会人としての第一歩」はこうしてみごとに失敗に終わったのだった。

◎親のお金でどうかこうか生き延びていた

それ以来、私は家の中に引きこもるようになった。
バイトに行けなくなったことで敗北感や挫折感も感じていたし、これから先の未来に対して絶望してもいた。
「簡単なバイトさえもこなせない自分は、きっとこのさき生き残っていけないに違いない」と思ったのだ。

ちなみに、当時の私は親元を離れて一人暮らしをしていた。
私は親との折り合いが悪く、一緒にいるとすぐにケンカになってしまう。
それで、同居はせずに離れて暮らしていたわけだ。

ただ、生活費は親が出してくれていた。
親との折り合いは悪かったのだが、私のことを心配はしていて、私が死んでしまわないように、金銭的な支援をしてくれていたのだ。

もちろん、それはとてもありがたいことだったのだが、そのことで私はますます自分を責めるようにもなっていた。
「いい歳をして自活できないなんて、自分はなんて情けないのだろう」といつも思っていたし、お金を使うことにも罪悪感があったのだ。

そんなわけで、当時の私は、お金の心配こそしなくてよかったのだが、家のことは全部自分でしなければならない状況にあった。
だが、当然ながら、家事なんてまともにする気力はなかった。
そもそも、生きる気さえろくになかったのだ。
むしろ「さっさと死んでしまいたい」と思っていたくらいだ。

結果、家の中は汚れはて、食事は一日に一回だけ。
風呂もろくに入らなかった。
今考えると、「よく死なずに生きていたな」と思う。

◎苦しみから逃れるためにゲームに依存する日々

そうして、ゴミだらけの家の中で、私はずっとテレビゲームをし続けていた。
というのも、ゲームをしている間だけは、苦しさを忘れていられたからだ。

ゲームに熱中していると、死にたい気持ちも、未来への絶望感も、挫折感や劣等感も感じないでいられた。
逆に言うと、ゲームを止めた途端、それらは一気に襲ってくる。
だから、私は怖くてゲームをやめられなくなっていた。

毎日毎日、起きてから寝るまでゲームをし続ける日々。
それは決して「楽しい生活」ではなかった。
なぜなら、当時の私はただ苦しみから逃れたくてゲームに依存していただけだったからだ。

依存症というものは、「自堕落で心の弱い人間がなる」と思われているが、実際にはちょっと違う。
人が依存症になるのは、依存せざるを得ない背景があるからだ。
心が強いか弱いかは関係ない。
たとえ心が強い人であっても、何らかの強いストレスがかかれば、そこから逃れるために依存症になる可能性はあるのだ。

私の場合は、「死にたい」という想いや強い自責の念から逃れるためにゲームに依存していた。
もちろん、そんなことを続けても状況がよくならないことは私にもわかっていた。

でも、いきなり社会復帰するのは難しすぎたし、そのために具体的にどうすればいいかもわからなかった。
だから、せめて苦しみだけでも紛らわそうとして、私はゲームをし続けていたわけなのだ。

◎とうとうゲームに飽きてしまった時

だが、そんなゲーム漬けの日々も終わりを迎える時が来た。
ゲームに飽きてしまったのだ。
家にあったゲームは全部やり尽くしてしまったし、店に並んでいるゲームソフトも「面白そう」と思えるものはもう一つもなかった。

こうなると、ゲームで苦しみを誤魔化すことはもうできない。
それまでは、ゲームに熱中することができたおかげで苦しみを忘れていられたのだが、ゲームをしてもつまらないのでは、苦しみから逃避することができなくなってしまう。
実際、飽きているゲームを繰り返しプレイしてみても、かえって余計に苦しくなるだけだった。

そこで私は、否応なく苦しみの中に放り込まれた。
ゲームという逃げ場を失ったことでますます絶望した私は、もだえ苦しんだ。

そして、「なんとか気を逸らす方法はないか」と思った私は、本棚にあった一冊の本を手に取った。
それは数年前になんとなく気になって買っていた本だったのだが、「なんでもいいから気を逸らすために読んでみよう」と思って、私は読書を始めたのだ。

◎読書が心を癒してくれた

もちろん、本を読んでみてもなかなか苦しみはなくならなかった。
だが、それでも苦しみから逃れたくて必死だった私は、読書にすがりついた。
もう長いこと本を読んでいなかったから、言葉は入ってきにくかったが、なんとか読むことに集中しようとした。

苦しみが湧いてきては本を手に取り、なかなか理解できないながらも、なんとか読書にしがみつく生活。
何日かそんな悪戦苦闘が続いたと思う。

すると、本を読み進めるうちに、不思議と心が軽くなっていくのを私は感じた。
それはまるで、自分の苦しみが消えていくかのような感覚だった。

ゲームをしている時は、熱中して苦しみを忘れることならあったが、心が軽くなることはなかった。
ゲームはあくまでも苦しみを見ないようにするための方便であり、苦しみそのものを消す作用があったわけではなかったからだ。

だが、本を読んでいると、心が軽くなって苦しみが消えていった。
私は数年ぶりに安らかな気持ちを取り戻したのだ。

その時に読んでいた本は、とある大学の教授が書いたエッセイ集のようなものだったのだが、それを読んでいると、なんだか自分のことを肯定してもらえたように私は感じた。
別に実際はそんなこと書いていないのだが、「まあ、人生いろいろあるさ」「そんな君のままで生きていていいんだよ」と、まるで筆者がすぐ横で語りかけてきてくれているように思えたのだ。

私はそれから、同じ著者の本を見つかるだけ全部購入し、読みふけった。
なぜなら、その人の言うことを理解するのが当時は純粋に楽しかったからだ。

また、その人の本を読めば読むほど、私は「生きていていいんだ」と思えるようになっていった。
枯れかけていた自己肯定感が、ようやく息を吹き返したのだ。

◎踊る喜びを思い出した体験

そうこうするうちに、私は元気を取り戻していった。
そして、毎日近所を散歩するようになった。

それまでは、出かけることといえば必要最小限の買い物をするときだけで、「散歩をしよう」なんて考えたこともなかった。
だが、読書によって元気を取り戻した私は、「ブラブラとその辺を歩きたい」と思うようになったのだ。

そうして毎日散歩をするうちに、家から少し離れたところに、私は居心地の良い公園を見つけた。
スペースもあって解放的で、芝生に寝転ぶと気持ちの良い公園だった。

ある日、その公園の芝生の上で、小学生くらいの男の子が母親らしき女性に付き添われて、逆立ちの練習をしているのを私は目撃した。
その時の私は、「公園でそんなことしていいんだ」と思ったのと同時に、「自分も何か練習してみたい」という風にも思った。

私はかつて専門学校でダンスを専攻していたが、もう何年もろくに身体を動かしていなかった。
ただ日々の散歩で体力が回復してきていたので、「本格的に運動をしてみたい」と思うようになっていたのだ。

私は専門学校時代に習ったダンスのエクササイズや基本的なステップを、人気(ひとけ)のなくなった夜の公園で毎日練習するようになった。
芝生にはライトがついていて、私はその光に照らされながら、昔のことを懐かしみつつ練習を続けた。

そうして練習をしていると、かつてダンスの先生から言われた言葉や、ダンス仲間との思い出が蘇ってきた。

「そういえば、こんなことがあったな」
「こんなことを言ってもらえて嬉しかったな」

そんな風に、思い出を振り返りながら、私は夜の公園でダンスを練習し続けた。
それは、当時の私にとって本当に楽しい時間だった。

専門学校時代は、主にダンスを仕事にするために練習していたし、同時にまた、自己顕示欲を満たすために踊ってもいた。
だが、本当に最初の最初は、「ただ踊ることが楽しかったから踊っていたのだ」と私は思い出した。

私がダンスを始めたのは高校一年の春のことだった。
学校の先輩から基本的なステップを教えてもらってそれを練習していた私は、同級生から「踊っているのか暴れているのかわからない」などと言われるくらい下手だった。
それでも、ただステップを踏むのが当時は楽しくて仕方なかった。
高校生の頃の私は、時間を忘れて同じステップを踏み続けたものだ。

あの頃の純粋な楽しさを、私はようやく取り戻せた気がした。
もう一緒に踊る仲間もおらず、指導してくれる先生もなく、立派な音響設備も壁一面のミラーもないが、楽しさだけはあったのだ。

◎社会復帰してバイトをしてみた時の話

こうして私は、読書によって心の健康を取り戻し、ダンスの練習によって身体も健康になっていった。
「社会復帰してみようか」と思うようになったのは、この頃からだったと思う。

とはいえ、前のバイトで失敗した経験がトラウマになっていた私は、いきなり長時間の仕事に就くことは避けることにした。
そこで、ひとまず近所のスーパーで募集していた朝だけのパートの仕事に応募した。

面接どころか、親以外の他人と会うのも数年ぶりだったので緊張したが、無事に採用されて働くことになった。
仕事の内容としては、「特売の日の朝に鮮魚部門で魚のパックをする」というものだったが、これが慣れるまではけっこう難しかったものだ。

だが、慣れてくると、私は鮮魚部門の上司よりも素早くきれいにパックができるようになった。
すると、私の働きを見ていた上司が店長にかけあって、「この子にもっと他の仕事もやらせてあげてほしい」と進言した。
「この子ならきっと良い働きをする」と思われたようだった。

その結果、品出しやレジ打ちもするようになり、特売日朝だけの短時間勤務から、徐々に週5の長時間勤務になっていった。
それは私にとって、本当に充実した日々だった。
自分の働きを認めてもらえたのも嬉しかったし、生まれて初めてまともに働いてお金を得ていたので、それが自信にもつながったのだ。

結局、遠方に引っ越しをしなければならなくなって、そのバイトは一年で辞めてしまったが、良い経験になったと今でも思っている。

◎誰に中にも「引きこもりから抜け出す力」は宿っている

それからも、私は様々なバイトを転々としてきた。
時には、精神的に深く傷つき、再び引きこもり状態に戻ってしまうこともあった。

だが、なんとかここまで生きてこれたし、今では仕事をして自活できている。
だから、もし今あなたが引きこもり状態にあったとしても、決して絶望しないでほしいと思う。
なんだかんだで人は生きていけるものだし、引きこもり状態から抜け出すきっかけも、どこにあるかわからないものだからだ。

もちろん、中には何十年も引きこもり続けている人だっているかもしれない。
その場合は、私のように自分から外に出ていくのは、もう難しいだろう。
そういう人は、支援機関に頼ったり、精神科の受診も検討したほうがいいと思う。
引きこもりそのものは精神疾患ではないが、長く引きこもっていると、精神に何らかの異常が発生していることも多いからだ。

もちろん、「引きこもっていても別に苦しくない」というのであれば、問題ないのかもしれない。
誰だって、疲れた時には数日引きこもりたくなることはあるし、それは健全な休息というものだ。

だが、何年間も長期にわたって引きこもっている人たちは、おそらくみんな苦しんでいるはずだ。
絶えず「このままではいけない」と思って焦り、「なんて自分はダメなんだ」と自責の念に駆られていることだろう。
だとすれば、それは解決すべき問題だと私は思う。

いずれにせよ、誰の中にも「引きこもり状態から抜け出す力」は眠っているものだ。
もしもそれを呼び覚ますことができれば、「人の輪」の中に戻っていけるに違いない。

そして、そのきっかけは意外と身近なところにあるかもしれない。
今引きこもり状態にある人たちが、そのきっかけをつかめることを、切に願っている。