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私たちは「幸福」を感じるように創られている

瞑想によって知ることのできる真実の一つは、「人間にとってニュートラルな状態は快だ」ということだ。

瞑想をすると思考が静かになり、感情的な反応が沈静化していく。
すると、心は「正」でも「負」でもない「真ん中」の状態に安定するようになっていく。

喜びや楽しさのようなポジティブな思考や感情に熱狂することもなく、かといって怒りや悲しみなどのネガティブな思考や感情に翻弄されることもなくなり、「ポジ」と「ネガ」の中間に留まれるようになっていくのだ。

ということで、今回はこの「ニュートラルな状態」について書いてみる。


◎「ニュートラルな状態」は「退屈」だが、「退屈」はやがて溶けて消える

「ニュートラルな状態は快だ」とさっき上で書いたが、最初のうちそれは「快」というより「何でもない状態」として体験される。
見渡す限り何の思考もなく、快でも不快でもない状態。
手応えのようなものはなく、特に感じるものもない。

そこには「退屈」の感覚だけがある。
というのも、「ニュートラルな状態」の中には、特にこれといった変化がないからだ。
心を刺激してくれるものが何もないのだ。

私たちはみんな基本的に刺激中毒になっている。
暇さえあればスマホをいじり、家に一人でいると見ていなくてもテレビをつける。
静かな空間に、することもなく一人きりでいることに、私たちは全く慣れていないのだ。

それゆえ、瞑想の実践を始めたばかりの頃は誰もが苦労する。
なぜなら、瞑想の実践とは「退屈」と直面することに他ならないからだ。

瞑想というのは「退屈」なものだ。
ただ静かに坐って、自分の呼吸を見守るだけ。
面白くもなんともない。
それで嫌になって瞑想をやめてしまう人は非常に多い。

だが、「退屈」というのは、もしもそれをとことん味わいつくすと、溶けて消える性質がある。
瞑想を地道に続けていくと、そのことはいつかわかるようになる。
瞑想によって「退屈」と直面し続けることで、それはなくなってしまうのだ。

「退屈」が溶けて消えるという経験は不思議なものだ。
「退屈」のただなかにいる時、自分が感じている「退屈」は永遠に続くもののように思える。

しかし、どこかのタイミングで、自分がもう「退屈」していないことに気づく。
そこには「静かな安らぎ」があり、「退屈からの解放感」があるのだ。

もちろん、「退屈」を半永久的に感じなくなるわけではない。
私も日々の生活の中で「退屈」を感じることはある。

しかし、今はもう「退屈は味わうと溶けて消える」ということを知っているので、「退屈」が「最終地点」ではないということがわかっている。
それゆえ、以前のように「退屈」をみやみに恐れるということもないのだ。

◎「退屈」が溶けて消えた時、私たちの本性が輝き出す

「退屈」の奥には「安らぎ」があり、「退屈」はそれを覆っているヴェールのようなものに過ぎない。
覆いをはぎとれば、そこにはいつでも「安らぎ」がある。

それは胸の中心で、「穏やかな心地よさ」として感じられる。
「ああ、これで大丈夫だ」「これ以上なにも必要ない」という満ち足りた感覚がそこにはある。
仏教において「涅槃寂静(ニルヴァーナ)」と呼ばれているのは、この感覚のことだろうと個人的には思っている。

だが、人は普通、こういった「安らぎ」を求めて、死に物狂いになって活動する。
たとえば、「金を稼げば安心できる」と思って働き続け、「パートナーがいれば幸せになれる」と思って婚活に精を出す。
「努力して何かを獲得しないと、自分は安らぐことができない」と思い込んでいるのだ。

だが、私の個人的な経験から言わせてもらえば、「安らぎ」は私たちの本性(ほんせい)だ。
それは失われることなく、内側に常に在る。
努力して何かを新しく手に入れる必要はない。
なぜなら、「必要はもの」は内側に既にあるからだ。

人は外側から内側に向き直って、「退屈」が溶けるまでただ待っていればいいだけだ。
そうすれば、「宝」はどこか外にあるわけではなく、元から自分の内側に埋まっていたのだと、はっきり理解できるだろう。

ただ、「退屈」が溶けて消えるまでには少し時間がかかる。
思考が消え、感情も沈静化し、何もない空間に一人佇む時、「退屈」は必ずやってくる。

私自身も、その向こうにある「安らぎ」を感じた経験がなかった頃は、「退屈」こそが「最終地点」だと思っていた。
しかし、「退屈にはその先がある」という先人の言葉を知識としては知っていたので、「それは本当だろうか?」と確かめるつもりで瞑想を続けていたのだ。

そして、それは起こった。
あるとき「退屈」は溶けて消えてしまい、「安らかな解放感」だけが残ったのだ。

この「安らかな解放感」は取り除かれることがない。
思考は瞑想によって取り除かれ、感情も瞑想によって沈静化するが、この「解放感」は瞑想によってなくなるどころか深まっていく。
それは「無」とリンクしており、「無思考・無感情」という空(くう)の中に広がる一つの質だ。

「退屈」さえも含めたあらゆるものを取り去った時、そこには「解放感」が残る。
それは元から内側にあったものであり、取り去ることのできないもの、私たちの本性そのものなのだ。

◎夜空に広がる星空を通して、私たちは「内なる無」に触れる

「ニュートラルな状態は人間にとって快だ」と私が最初に言ったのは、このためだ。
「ニュートラルな状態」は本当なら「快でも不快でもない状態」のはずなのだが、なぜかいつも「心地よい懐かしさ」として体験される。
つまり、私たちの本来の性質は、「苦しみ」ではなく「幸福」なのだ。

その感覚は、よく晴れた夜の空を見上げて、星々を眺める時の心地に似ている。
夜空に散らばった無数の星々に囲まれた時、人は自分の存在の小ささを感じ、日常の苦しみや嫌なことを一時的に忘れる。
そして、宇宙の大きさを感じ、その中に吸い込まれ、「懐かしさ」と「解放感」を内側に感じるのだ。

その時、人は内なる「無」に触れている。
「何か大きなもの」に繋がっており、「自分自身」を忘れている。
それは「解放的な経験」であり、同時に「なぜか懐かしい感覚」でもあるだろう。
空に散らばる星々を通して、私たちは「自分の中心」と出会っているのだ。

忙しい日常の中で、ふと立ち止まって深呼吸をする。
すると、内側に「宇宙」が感じられる。
たとえその場所が仕事先のオフィスであっても、目を閉じれば内側に「星々」が見える。
「安らぎ」はそこにあり、深呼吸一つするだけで、人は「故郷」に帰ることができるのだ。

あくせく働くことばかりを追い求めると、この「内なる静かな宇宙」を感じることはできなくなる。
だが逆に、「別に星空を見に行かなくても、内側に常に宇宙はある」ということがわかっていれば、たとえ身体はオフィスで働いていても、心は「安らぎ」を忘れずにいられるだろう。

「安らぎ」を見つけるためのコツは、ときどき立ち止まって自分の内側を見つめることだ。
ひょっとするとそこには、無数の思考や感情がひしめき合っているかもしれない。
だが、落ち着いてそれらを見つめていると、全ての思考や感情はやがて溶けて消えていく。
「退屈」さえもが溶けて消えるのだ。

その時、「人は生まれながらに幸福を感じるよう創られている」ということがわかるだろう。
「幸福」はどこか外に見つけるものではなく、私たちの魂に元から備わっているものなのだ。

◎人間だけが「内側の幸福」を味わうことができる

ちなみに、動物はみんなこの「幸福」を知っている。
なぜなら、彼ら動物は「自分の故郷」から離れたことがないからだ。

人間だけが「故郷」から離れる。
「知識」という名の武器を振りかざし、「自我」をどんどん発達させては、それに振り回され続ける。

「知識」を落とせば「知恵」が生まれ、「自我」を落とせば「無私の人」になる。
実際、動物は「知恵」を体現しているし、「無私の生」をこそ生きている。
それはどこかから新たに付け加えるものではなくて、動物や私たちの中に、もともと備わっているものなのだ。

もちろん、人間は完全に動物のようにはなれないし、またなるべきでもない。
人間は自然界ではなく社会の中で生きているし、今さら野生の世界に戻ることなど誰にもできないからだ。

ただ、動物になくて人間にだけ備わっているものがある。
それは「意識」だ。

人間は自分が何者かを意識する生き物だ。
それゆえ、私たちは「生きる意味」を問い、それに答えようとしてもがくのだ。

だが、この「意識」があるからこそ、私たちは人生を深く味わうことができる。
「意識的」に味わおうとすることによって、何でもない日々の生活さえもが、「特別なもの」に変わるのだ。

動物は自分が感じている「幸福」を「意識」していない。
人間だけが「意識」できる。
星空を見上げて圧倒される時、「内側の幸福」を思い出して、それを深く味わうことができるのだ。

だから、時には立ち止まって内側を静かに見つめてみよう。
内側には「穏やかな幸せ」が埋まっており、それは私たち自身に思い出してもらえるのを待っている。

私たちはみんな「そこ」から生まれてきた。
それを忘れることはあっても、なくしてしまうことはあり得ない。

誰の心の奥底にも、本当は「幸せ」が宿っているのだ。