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「命」が先か「形」が先か

昔、ダンスの師匠から「形は命に追いすがり、命は形に追いすがる」と言われたことがある。
これはもともとは暗黒舞踏の創始者である土方巽の言葉のようなのだが、その意味するところが、昔はよくわからなかった。

だが、今はなんとなくわかる気がしている。
今回はそのことについて書く。


◎「形」が「命」に追いすがる場合

たとえば、何か嫌なことがあって叫びたくなったとする。
そこには「内的な衝動」があり、それが実際に叫ぶという「外側の行為」として表現される。

大雑把に言えば、この場合の「内的な衝動」が「命」であり、「外側の行為」が「形」だ。
この場合、「叫びたい」という「内的な衝動=命」に、「叫ぶ」という「外的な行為=形」が追いすがっている。
いわば、「形が命に追いすがっている状態」だ。

こういうことは現実によくある。
私たちは様々な「内的欲求」を持ち、多くのことを感じながら生活している。
そして、それらの「内的欲求」が、「具体的な表現行為」を求めるのだ。

たとえば、ここに「ものすごく走りたい人」がいたとする。
その人の内側には「走りたい」という欲求が溢れている。
その欲求は、その人の「命」そのものだ。

そして、あまりにもその「命」が激しすぎるので、当人は思わず走り出してしまう。
その「走り」には、その人自身の「命」が宿っている。
ただ機械的に走っているというわけでは決してない。
それはその人の「命」の表現となり、「単なる形」ではなく「命ある形」となるわけだ。

◎即興舞踊においては、「内的な欲求」を大事にする

私は即興舞踊をするのだが、その際、あえて動こうとせずに「自分の身体が発する声に耳を傾けて待つ」ということをよくする。
瞑想的になって思考を消し、内側深くへと潜っていくのだ。

すると、不思議なことに「こう動きたい」という「内的な欲求」が起こってくる。
こちらで「起こそう」と思わなくても、内側から自然と欲求が湧いてくるのだ。

たとえば、首を横に倒したくなったり、腕を丸く振りたくなったりすることがある。
そうしたら、今度はその欲求の通りに動いてみる。
ただし、最初はかすかな欲求なので、あまり大きくは動かない。
「自分の内側」に耳を澄ませ、その声を確かめながら動くのだ。

すると、徐々に「これだ!」という納得感と快い感覚が現れてくる。
「この動きを自分はしたいのだ」という自分の気持ちに対する確信が持てるようになっていくのだ。

その確信が持てたら、動きを少しずつ大きくしていく。
動きに全身を関与させ、巻き込んでいくのだ。
最初にやっていることとしては、ただ首を傾けたり腕を振ったりしているだけだが、それらの動きが「内的な確信」に後押しされながら発展していくわけだ。

それによって「動き=形」に「内的な確信=命」が吹き込まれ、表現が機械的にならなくて済むようになる。
逆に、機械的に首を傾けたり腕を振ったりすることもできるが、それは「命のない形」だ。
その時、当人は内的には何も感じておらず、ただ「表面的な形」をなぞっているだけに過ぎない。

私が即興舞踊をする時には、何も感じないまま表面的な動きをなぞったりしないように気を付けている。
なぜなら、そういった動きにはやっていて納得感がないし、「これでよい」という肯定的な感覚も感じられないからだ。

「決まった振り付け」や「答え」のない即興舞踊においては、納得感や肯定感がないと道に迷ってしまう。
「これでよいのだ」という確信が持てないまま中途半端に動いてしまうと、内側に疑いと虚しさが湧いてきてしまい、動きが濁ってしまうのだ。

◎「形」に触発される「命」

と、こう書くと、「何事も『命』を内側に感じるのが大事で、『形』は二の次だ」と思うかもしれない。
常に「命」が先行していて、「形」はそれに追いすがる付属物のようなものだと思えるわけだ。

だが、私の師匠は「形は命に追いすがる」というだけではなく、「命は形に追いすがる」とも言っていた。
つまり、「形」が先行して進んでいき、後からそこに「命」が宿るようになる場合もあるということだ。

たとえば、「落ち込んでいる時は、楽しくなくても笑ってみよう」というアドバイスを聞いたことのある人は多いだろう。
というのも、たとえ実際には楽しくなかったとしても、笑っているうちに本当に楽しくなってくることがあるからだ。

これは要するに、「内的な楽しさ=命」がない状態でも、「とりあえず笑う」という「形」を反復することで、後から「楽しさ」が起こってくるということだ。
言い換えれば、先行した「形」が後から「命」を呼び起こしているわけだ。

また、家事や勉強など、やり始める前までは気が重かったのに、実際に着手してみると時間を忘れて熱中してしまうことが私たちにはよくある。
こういった場合、最初のうちは何も感じずに作業しているのだが、やっているうちに気分が乗ってきて、高揚感さえ感じるようになっていく。
これもまた、「形」が「命」を呼び起こしている状態と言えるだろう。

これらは「命が形に追いすがる」ということの身近な例だ。
もしも内側が空虚で「命」を全く感じられないとしても、とにかく実際の行動を起こし、リアルタイムで何かをすることの中で「命」は感じられるようになっていくわけだ。

ダンスの場合も同様で、「内側」に耳を澄ませてみても、何の声も聞こえないことがある。
そういう時に、いつまでも動かないで待っていると、集中力が切れてしまったり、気分がだらけてしまったりする。

それゆえ、時には内側に「命」が感じられなかったとしても、とにかく動き倒してみる必要がある。
がむしゃらになって動くうちに、身体は温まってくるし、呼吸も心臓も弾んでくる。
そうして徐々に内側に「生きている実感」が感じられるようになっていき、「形」に「命」が宿るようになるのだ。

ただ、私は基本的に何も感じないまま動くことが苦痛に感じられる人間なので、あまりこちらのアプローチは取ることがない。
「これをしたい!」という「内的な欲求」がないならば、無理して行動を起こすよりも、無為と沈黙の中に留まって瞑想しているほうがいいと思っている。

ただ、無為と沈黙の中に留まることが難しい人もいると思うので、「実際に行動しながら『命』をそこに宿していく」というアプローチも有効な場合があるだろう。

◎「命」を抑圧する人々と、「命」を感じられない人々

いずれにせよ、最終的には「命」と「形」が一つになることが重要だ。
「内的な何か=命」だけあって「外側の行為=形」がないならば、私たちは何も表現できないし、「命」がないまま「形」を機械的に繰り返していても虚しいだけだ。

私たちが人生を生きる際にも、こういった問題はよく起こる。

たとえば、内側に「したいこと」や「言いたいこと」がたくさんあるのに、それを抑え込んで表現しないことで苦しくなってしまっている人がいる。
親や上司に言いたいことがあっても我慢している人は多いし、「この年でこんなことをするのは恥ずかしい」と思ってやりたいことをやらずにいる人もいるだろう。

こういった人々は、「命」があるのに「形」がそこに伴っていない。
結果、「命」が発する声は抑圧され、当人は徐々に生気が無くなっていってしまうのだ。

反対に、内側で何も感じないまま、日々を機械的に生きている人たちもいる。
毎日毎日、学校や会社に行って、長時間勉強したり働いたりするが、そこには何の実感も伴ってはいない。

彼らは「形」だけがあって「命」が内側に欠けている。
実際、当人も主観的には「生きているのか死んでいるのかわからない」と感じており、「生の無意味さ」や「空虚感」に苦しんでいる場合が多い。

「命」のないまま「形」だけを反復することによって、生きながら死んでしまっているのだ。

◎「命」があるなら表現し、「命」がないなら挑戦する

前者のように、「したいこと」や「言いたいこと」があるのにそれを抑え込んでしまう人は、「自分の気持ち=命」に「表現の道=形」を与えてあげることが大事だ。
せっかく自分に宿った「命」なのだから、それを殺すのではなく生きるのだ。

たとえば、河原で叫んでみてもいいし、思い切り走ってみてもいい。
なんであれ、全身全霊で表現することで、「命」は死なずに生きることができる。

また、「他人に言えない気持ち」については、誰にも見せないノートを作って、そこに書きなぐってみるのもいいだろう。
その「書きなぐり」はきっと「命のこもった行為」になる。
そして、そのような行為によってこそ、私たちは「生きている実感」を得られるものなのだ。

また、後者のように、何も感じないまま日々の生活を反復し、人生にうんざりしてしまっている人は、あえて「いつもやらないこと」をとことんやってみることだ。
機械的に繰り返すことをやめ、「新しい何か」に挑戦すれば、その行為の中で「命」が呼び戻されてくる。

最初は面白く感じなかったとしても、それで普通だ。
そもそも何かを「面白い」と感じることのできる感受性が麻痺してしまっているからこそ、「命」を感じられないのだから。

「人生が退屈で仕方ない」という人は、いきなり「面白いこと」を見つけようとしないほうがいい。
なぜなら、当人の中では「楽しい」という回路自体がうまく働かなくなってしまっているはずだからだ。

もしも「手っ取り早く楽しいことを見つけよう」と思ったら、十中八九、「出来合いの娯楽」で暇を潰すことしかできなくなる。
なぜなら、それが手軽で楽だからだ。

しかし、「行為=形」から「感情=命」を呼び起こそうと思ったら、そんな風に手を抜いていてはいけない。
自分では「ちょっと面倒だ」と感じるようなことをあえてやってみて、その「行為」に没入することによって、徐々に「命」を取り戻していくしか道はないのだ。

◎人間という「とても贅沢な生き物」の望み

私たちの「命」と「形」は必ずしも一致していない。
なぜなら、私たちは「自分の命」を抑圧してそれに「形」を与えないこともしばしばあるし、「命のない形の反復」にうんざりしてしまうこともあるからだ。

だが、「命」と「形」が一つに溶け合う時、そこに「生きている実感」が生じてくる。
「命」が発する声を抑圧せず、「形」だけを機械的に反復するのでもなく、「命」と「形」の二つを融合させることが、日々の生活を充実させるカギなのだ。

時には「自分の命が発する声」が聞こえなくなる時もある。
そういう時には、一度立ち止まって耳を澄ましてみるのも一つの手だ。
「自分の心」が本当は何を欲しているのか、その声に耳を傾けるのだ。

あるいは、がむしゃらになって動き回ってみるのもいい。
なぜなら、「命は形に追いすがる」からだ。
黙って待っていても何も感じられないならば、ひたすら動き回る中で、「生きている実感」を取り戻すのだ。

そう、「生きている実感」こそが、私たちの求めているものだ。
実際、私たちは、できることなら自分の内側で脈打っている「命」を感じたいといつも願っている。

「命」を感じないまま生きていても、それだけではただ「生存している」ということしか意味しない。
そして、私たちはそんな人生には満足できないし、決して納得することもできないだろう。
「生存する」というだけではなく、「生きる」ということのためには、どうしても「内なる命」という「火」が必要なのだ。

「自分の内なる命」に対して敏感であろう。
時には立ち止まって耳を澄まし、時にはあえて動き回って挑戦し、「自分の命」を感じてみよう。

「生きている」という実感の根っこはそこにしかないし、「命」は生きられることを欲するものだ。
なぜなら、私たち人間は「ただ生存するだけ」では決して満足することができない、「とても贅沢な生き物」だからだ。

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