見出し画像

瞑想の実践によって「間違った生き方」は破壊される

瞑想を実践すると、心穏やかになれると一般には考えられている。

もちろん、瞑想とは「平安とは何か」を知るための術だ。
だが、「平安とは何か」がわかるようになるまでの道は、けっこうグネグネと曲がっている。

時には、自分がむしろ「平安」から離れていくかのように感じる場合もある。
瞑想をすることでかえって混乱し、精神的に不安定になることがあるのだ。


◎瞑想によって「必要な変化」が呼び起こされる

瞑想の実践がもしも当人を本当に深く変えるなら、その人は一時的に深い混乱を経験する。
それは、「自分の現状」に目覚めたことによる「目まい」の感覚だ。

普通、私たちは「自分の現状」に気づかないで生活している。
自分が何を抑圧しているか、かつて親や教師から言われたどんな教えに従って生きているか、自覚していない。

だが、瞑想の実践によって心が柔らかく開いてくると、その奥に抑圧していたものが噴き出してくる。
長年抑圧してきた怒りが出てきたり、ずっと無意識に感じないようしてきた悲しみに触れてしまったりする。
それによって、日常的に怒りっぽくなる人もいれば、涙もろくなる人もいるだろう。

こういった変化は当人だけでなく、周囲の人も困惑させる。
「いったいどうしてしまったのだろう?」と周りの人たちは心配する。

場合によっては、そういった変化を迷惑がる人もいるかもしれない。
瞑想をしていた当人が急に怒りっぽくなったりしたら、なおさらそう感じる人が出てくる可能性は高い。

それゆえ、当人も周りの人たちも「何か間違ったこと」が進行していると考えてしまう。
実際には、瞑想によって「必要な変化」が呼び起こされただけなのだが、それらは「よくないもの」として再び抑え込まれてしまうのだ。

◎瞑想は人に「最大限の生き方」を開く

瞑想は人の可能性を開く。
瞑想は決して人を「無難な人生」に順応させない。
むしろ、瞑想は「無難な人生」を破壊することで、当人を本当の意味で生きさせようとするのだ。

「無難な人生」とは「最低限の生き方」であり、「自分を絶えず抑え込み続ける生き方」だ。
それは、「安定」はしているが「生気」に欠けている。

瞑想が開くのは「最大限の生き方」だ。
小さく縮こまって生きるのではなく、自分らしく活き活きと生きる人生を、瞑想は開こうとする。

だが、その結果として、それまで上手くいっていた周りとの関係が変化してしまう。
たとえば、友人や知人と話が合わなくなったり、突然、価値観の違いが目立ってきたりするのだ。

本人はそういう時、「自分は何かおかしいのではないか?」と思いがちだ。
私も過去にそう思っていた時期があった。
そして、「自分はおかしくなってしまったに違いない。瞑想が悪く作用したのだ」と当時は思い込んでいた。

だが、実際のところ人は瞑想によって「おかしく」なることはない。
反対に、瞑想が人を「まとも」するのだ。
言い換えれば、瞑想が当人の感受性を「まとも」にしたことで、「もともとまともじゃなかった社会」に違和感を覚えるようになっただけだということだ。

◎「おかしい多数派」の中でたった一人「まとも」に目覚めること

「数が多いほうが正しくて、数の少ないほうが間違っている」というのが多数決の論理だが、多数派が本当に「正しい」かどうかは疑ってみたほうがいい。
多くの社会人が自分の感受性を殺すことで社会に順応しているが、それが本当に「まとも」なのかというと、そうとも言えないだろう。

実際、少なくはない人々が、無理をして働いてうつ病になってしまう。
それは、自分の心の声を無視して、労働するための機械のように働き続けた結果だろう。

周りがみんな機械のような人ばかりの環境に身を置いていたら、自分だけ人間らしくなった時に本人は強い違和感を覚えるはずだ。
そういう時、当人は自分だけが間違っているかのように感じる。
だが、実際のところ、「おかしい」のは周りのほうであって、その人のほうではないのだ。

瞑想を実践すると感受性が豊かに開かれてくる。
それゆえ、今まで何とも思わなかった周りの人たちの在り方に疑問が生じるのはよくあることだ。

また、ずっと無意識に感情を抑圧し、何も感じないようにして生きてきた人は、感受性が蘇ることで一時的に感情のコントロールが利かなくなったりもする。
さっき上でも書いたが、怒りっぽくなったり、涙もろくなったりするのだ。
それは、長年抑圧してきたネガティブな感情が表に出てくるためだ。

そんなわけで、瞑想を実践して生命力が活性化してくると、「かえって生きにくくなる」という逆説が生じる。
だが、瞑想に限らず、真に人を変容させる技法というのは全てそういうものだ。

真の技法は必ず本人の「安定」を一度破壊する。
それは、「今までいた場所」に本人を安住できなくさせ、「新たな地」に向かって旅立つようにと促すのだ。

◎「病的な安定」から「健全な不安定」へ

私たちが「安定」して暮らしていられるのは、私たちの心がどこか「病的」だからだ。
普通は、「病的」だから仕事に行けなくなったり学校に通えなくなったりするのだろうと思われているが、話は逆だ。
むしろ、「病的な仕方で安定している」からこそ、何の疑問も持たずに毎日働いたり学校に行ったりできるのだ。

瞑想などのような人を変容させる技法を実践すると、この「病的な安定」が破壊される。
それゆえ、本人は「健全な不安定」の中に投げ込まれる。
それまで悩まなかったことを悩むようになり、かつては全く気にしなかったことが気にかかるようになるのだ。

それは、多くの場合、本人にとって困惑とともに体験される。
そういう時、「自分はどこかおかしいのではないか?」と本人は思うだろうが、何度も言うように、それで「真っ当」なのだ。

今の社会のような「狂った環境」に身を置いていて、何の疑問も持たず、違和感さえ感じずに生きていられるのは、「どこかおかしい人」だけだ。
「何かがおかしい」と感じるのは当たり前のことであり、そう感じる自分のことを「おかしい」と思って責める必要は全くないのだ。

◎私たちの「個性化」のプロセスは一般的な考えの逆を行く

私たちの「個性化」のプロセスというのは、一般に考えられている成熟のプロセスを逆行する。
普通は、幼児期から思春期になり、大人になって社会に適応すると思われている。

しかし、実際には「社会に適応している状態」というのは、精神の成熟段階としては「スタートライン」にすら立っていない。
なぜなら、「社会に適応している状態」というのは、「何も感じない機械として社会の一部になっている状態」だからだ。

その状態では、何かを主張する「自己」さえもない。
当人は周りに流され、何も感じず、疑問も持たずに生きていく。
それは一般的には「立派な社会人」と呼ばれるものかもしれないが、精神的には「死んでいる」のと変わらない。

だが、そこから何らかのきっかけで感受性が蘇ってくると、人は「自己」を主張し始める。
まず最初に「嫌だ」という感覚が出てきて、いろいろなものが我慢できなくなってくる。
そして、他人から押し付けられた価値観や考え方に同調できなくなり、「自分の欲すること」をしようと強く望むようになっていくのだ。

この時期には、周りとの衝突が起こることも多いし、当人は孤軍奮闘することになりがちだ。
それでも、一度獲得した「自己」を消すことはもうできない。
そんなことをしたら、自分が新たに獲得した「力」と「統一感」を失うことになると、本人には直観的にわかるからだ。

しかし、そうして「自分の欲すること」を夢中になって追求していくうちに、「自己」が徐々に落ちていく。
「自分」をことさら主張することもなくなり、全てのことをただ幼子が遊びに興じるようにおこなうようになる。
その時、人は創造的になり、「あるがまま」に生きるようになるのだ。

◎ニーチェが語る「精神の三段の変化」について

このように、人が「個性化」するプロセスは、「社会適応した立派な社会人」から脱落するところより始まる。
そうして「自己」を獲得し、「社会への適応」が破壊され、周りに理解されない中で当人は孤軍奮闘する。
だが、最終的には、「自分の欲すること」を追い求めるうちに「自己」は消え、ただ創造的に遊びに没頭する幼子のようになっていくのだ。

このプロセスを、哲学者ニーチェは「駱駝(らくだ)→獅子→小児」という三段階の変化として描いている。
従順な駱駝だったところから、「自己」を主張して戦う獅子となり、最後には創造的に遊ぶ小児になっていくわけだ。

それは一見すると「退行」しているようにも見えるだろう。
というのも、極めて従順な駱駝だったところから、獅子になって周りの言うことを聞かなくなり、最終的には無垢な幼子のようになってしまうわけなのだから。
実際、ニーチェもこのプロセスを「没落」と表現している。

だが、私たちの「個性化」は、この一見すると「退行」のように思える仕方で進行する。

周りの言うことをただ聞くだけの人間に「個性」はない。
「自分」を獲得するためにも、人は駱駝から獅子にならねばならない。

だが、「自分」にこだわり続けるのも不必要なことだ。
一度「自分」を獲得したならば、どこかで「自分」を手放して、小児のように遊ぶことに没頭すればいいのだ。

その時、人はもはやどこも目指すことはなく、「今ここ」が常に「ゴール」となる。
目的と手段は一つになり、全身全霊で創造的に生きるようになるのだ。

◎瞑想は人を生きながら生まれ変わらせる

瞑想の実践が当人を混乱させることがあるのは、瞑想が人を「個性化」させようとするからだ。
それまで駱駝だった人は、瞑想によって獅子になる。
あるいは、いきなり獅子にはならなくても、駱駝で居続けることはできなくなるだろう。

そうなると、周りの人々や自分の在り方に疑問を感じるようになり、もはや「元のまま」ではいられない。
否応なく「個性化」のプロセスは進行し、当人はやがて獅子として目覚め、最終的には小児になるのだ。

小児にまで至った時、そこに「平安」はある。

瞑想をすると「平安」に至れると思われているが、それはすぐには手に入らない。
少なくとも、「今の自分のまま」では絶対に無理だ。
真に「自由」を手にするためには、人は獅子を経由しなければならないからだ。

瞑想は、そういう意味では「危険なもの」だ。
というのも、瞑想は「今の自分」を破壊するからだ。

だが、多くの人は「今の自分」に安住したまま、瞑想のメリットだけを享受しようとする。
もちろん、瞑想はそういう使い方もできる。
しかし、それによって人は「より優秀な駱駝」にはなるかもしれないが、「自分」を生きられるようには一生ならないだろう。

瞑想は私たちを深く変える力を持っている。
それゆえ、瞑想がうまく進んでいる時ほど、当人は「何か間違っているのではないか?」という疑いを持つ。

しかし、別に何も間違ってはいない。
むしろ「今までの生き方」が間違っていたので、瞑想がそれを破壊してくれているだけなのだ。

破壊と創造は二つで一つだ。
何かを破壊するからこそ、別の何かが創り出される。
「今までの自分」が破壊されることによって、「これからの自分」が新たに創り出されるのだ。

それは、生きながら生まれ変わるようなものだ。

「新しい自分」として生まれ直すこと。
瞑想はそのための手助けをする、変容のための技法なのだ。