「努力」を意志することはできない
私は10代の頃、「人間は努力をしようと思ってすることができない」と感じていたことがある。
そして、今もやはり同じように思っている。
それは言い換えれば、「努力は意志できない」ということだ。
というのも、人が本当に成果を出したり成長したりする時というのは、当人に「努力をしている感覚」がないものだからだ。
◎「やりたいこと」をやっている時、「努力している感覚」はない
そもそも私たちは何かに夢中になって取り組んでいると、時間が経つのを忘れてしまう。
たとえば、大好きなゲームをしている時は、徹夜をしてもへっちゃらだ。
疲れもしないし、「頑張った」とも思わない。
それは、「ゲームをすること」が「本人のしたいこと」だからだ。
そういう時には、「努力をして何かをしている」という感覚はない。
「ただやりたいことをやっていたら、そうなってしまった」というだけだ。
ゲームに限らず、私たちが「自発的」に何かに取り組んでいる時には、難しいことや大変なことでも、本人は全く苦にしない。
むしろ、そういった困難を乗り越えることに「快い感覚」をさえ感じるだろう。
逆に、「やりたい」と思っていないことをやる時には、私たちは我慢して頑張らないといけない。
時間はなかなか経たず、すぐに疲労感を感じ、何もかもが面倒くさくなる。
そういう時、本人には「努力している感覚」が強くあるだろう。
それをすることがあまりにも辛いので、努力しなければできないのだ。
だが、10代の頃の私は、そういうのを「努力」と呼ぶことに抵抗があった。
それは「努力」ではなくて、単なる「我慢」に過ぎないように思えたからだ。
そうなると、この世にいるのは、「努力しているとも思わずやりたいことをやっている人間」と、「嫌なことを我慢しながらやっている人間」の二種類だけということになる。
前者は周囲の人からは「すごく努力している」ように見えるが、本人の主観的にはただ楽しみながらしているだけで「努力している感覚」はない。
逆に後者は、周囲の人からは「辛そう」に見え、本人の主観としても「ものすごく頑張っている感覚」があるが、大した結果は出ない。
「本当の努力」というのは前者のような「自発的なもの」だと私には思えるのだが、それは「努力しよう」と思ってしているものではない。
私たちに意志できるのは、「嫌なことを我慢して頑張ること」だけであり、「努力」は意志できない。
私たちが本当に「努力」する時というのは、「努力しよう」という意志もなければ、「努力している」という感覚すらもなく、ただただ憑かれたように夢中になって物事に取り組んでいる時なのだ。
◎「努力」と「天命」の関係性
私は10代のある時にこのことに気づいて、心底驚いた。
それまでは、「努力というのはしようと思ったらできるものだ」と思っていた。
だが、「しよう」と思ってできるのは「我慢」だけで、「努力」というのは常に「知らず知らずのうちにしてしまうもの」だと当時の私には思えたのだ。
世の中には、他人から「何もそこまでしなくても…」と思われるくらい「努力」する人がたまにいる。
だが、本人には他にどうしようもない。
あまりにも深く衝き動かされているので、それをする以外にしようがないのだ。
たとえば、ゴッホは生前ほとんど評価されなかったが、取り憑かれたように無数の絵を描き続けて死んだ。
だが、本人にはきっと「努力している」という感覚はなかったはずだ。
ただ、彼には他にどうしようもなかっただけに過ぎない。
「絵を描かないなら生きている意味などない」とさえ思っていたことだろう。
自分自身の「描きたい」という衝動にあまりにも深く衝き動かされていたので、「描かないでいる」ということがどうしてもできなかったのだ。
そういう意味では、「努力」というのは「天から与えられたもの」であるかのようだ。
私たちが「内なる何か」に衝き動かされて「自発的」に行為する時、私たちは夢中になってそれをする。
だが、私たちはそれをすることを自分自身では選べない。
私たちは気づいたら何かに取り憑かれており、自分の意志とは関係なく、おびただしい量の「努力」を積み重ねていくのだ。
だから、「努力」というのは「天命」と関係があると、若いころの私は思っていたし、今もやはりそう思っている。
なぜなら、私たちが何を「したい」と思うかは、私たち自身で選んだものではないからだ。
気づいてみたら「あること」がしたくなっていた。
いつの間にやら「あること」が好きになっていた。
「なぜかそれ以外ではありえなかった」という意味では、それは「その人の運命」のようにも思える。
つまり、私たちが何かを「自発的」にしたくなる時、私たち自身が自分でその「何か」を選んだのではなく、むしろその「何か」の側が私たちのほうを選んだかのように見えるのだ。
◎「天」に衝き動かされる時、人は「主体的」であると同時に「受動的」になる
繰り返すが、私たちに意志してできるのは「努力」ではなくて「我慢」だけだ。
自分で選べるのは「我慢」だけで、「努力」は自分で選べない。
なぜなら、「努力」は「天」に選ばれた人にしかできないからだ。
そして、私たちは誰もが自分の内側に「天」から何かを与えられて持っている。
自分だけの「したいこと」があり、そのためだったらどんな困難も苦にしないような何かを、誰もが持って生まれてくるのだ。
それがその人の「天命」だ。
「天」から「あなたはこれをしなさい」と与えられた、「その人自身の運命」なのだ。
それに従っている時、当人は「努力している感覚」さえなく、楽しみながら大きな結果を残す。
周囲の人はそんな様子を外から見て「すごい努力家だ」と言うかもしれないが、当人にはそんな自覚がない。
ただ、「内なる自発性」に衝き動かされて、そうせずにいられないだけなのだ。
そう考えてみると、「自発性」というのは「主体的」であると同時に「受動的」なものだ。
なぜなら、「自分でそれをしたくてしている」という意味では「主体的」なのだが、「天」に選ばれ衝き動かされているという意味では徹底的に「受動的」だからだ。
そこには「天によってそのように生かされている」という感覚がある。
「自分で主体的に生きている」というよりも、「他にどうしようもなくてそう生きている」というほうが実態には即しているだろう。
だが、「他にどうしようもない」とは言っても、他人の言うことに従って仕方なく生きている場合と違い、「天」に従って生きている時には、内側から力がどんどん湧いてくる。
他人に従って生きていると生命力は衰えるが、「天」に従って生きていると生命力は強まるのだ。
◎「天」が望むように生きようとすること
他人に動かされている人は「弱い」が、「天」に動かされている人は「強い」。
実際、「天」と繋がっている人は、他人の言動をものともしない。
周りが何を言おうとも、「自分のしたいこと」をやろうとする。
そういう意味では、「天」に動かされている人のことを「自分軸」と言うこともできるのかもしれないが、実際のところ、「天」に動かされている人には「自分」がない。
「自分を超えた大きなもの」に動かされてしまっているので、「他人軸」でないのはもちろんだが、厳密に言うと「自分軸」でさえないのだ。
もしもあなたが意志の力に頼らず何か「努力」することができるなら、それは「天の恵み」だ。
あなたは「それ」をするように創られている。
そして、きっと「それ」をすることによってより活き活きし、「幸せ」を感じられるだろう。
だが、人は「天」に従うのではなく、いつも「他人の評価」に従う。
たとえば「もっと年収を上げよう」とか、「もっといい成績を取ろう」とか、「もっとフォロワー数を増やそう」とかとか、他人からより良い評価を得ようとして「努力」ではなく「我慢」をする。
自分を偽って他人にへつらうのだ。
だから、生きることに「幸せ」が感じられない。
「幸せのようなもの」が感じられるのは、他人から評価してもらえた時だけだ。
そして、絶えず他人と自分を比較しては、「上には上がいる」と知って落ち込むのだ。
他人の評価など忘れて、「自分のやりたいこと」に夢中になれば、それをしていること自体が喜びになる。
たとえ他人から評価されなかったとしても関係ない。
「自分のやりたいことを現にしている」ということそのものが、かけがえのない報酬になるのだ。
それゆえ、「努力」は人生を充実させる。
ただし「努力」は意志できない。
私たちにできるのは、「自分の内側」をどこまでも深く掘っていくことだけだ。
そして、「自分の内側」にこそ、当人にとっての「本当にしたいこと」は埋まっているものなのだ。
「自分のしたいこと」にどこまでも忠実であること。
それが「幸せ」に生きるためのコツだ。
だがそれは、「何でも好き放題する」ということではない。
むしろそれは、何でも好き放題にしようとする「小さな自分」など捨て去って、「天」が私たちに望んでいるように生きようとすることなのだ。