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「~したい」という心の声と、「~せねばならない」という頭の命令

前回、「『死にたい気持ち』の裏側には『生きたい』という想いが隠れているから、それを大事にしよう」と書いた。

だが、記事を書いた後に、「死にたい」という気持ちにもバリエーションがあることに思い至った。
今回はそのことについて書こうと思う。


◎「死にたい」ではなく「死なねばならない」

前回の記事で書いたのは、「自分の『生きたい』が挫折したときに、『死にたい』という気持ちは表れてくる」ということだった。
つまり、「生きたいように生きられない現実」から逃げ出すために、「死」を選びたくなるという心理が、私たちの中では働いているというわけだ。

だから、そういう時には、表面的に現れている「死にたい」にフォーカスするのではなく、その奥にある「生きたい」にスポットライトを当てるようにしたほうがいいと書いた。
なぜなら、「死にたい」の奥には、「自分が本当に望んでいる生き方」が隠されているものだからだ。

しかし、時として私たちは「死にたい」ではなく「死ななければならない」と思い詰めることがある。

たとえば、何か大きな失敗をした時などに、強い罪悪感を感じたとする。
そういう場合、「自分みたいな人間は生きていてはいけない」と思ってしまう人がいる。
「こんな失敗をする自分は死ななければならない」と思うわけだ。

この場合、表面的には本人は「死」を求めているように見える。
だが、これは「心から出てきた欲求」ではなく、「頭から生じた強迫観念」だ。
つまり、この場合の「死にたい」は、「生きたい」という心の声の裏返しなのではなく、「必ずこういう風に生きねばならない」という頭の声の反転なのだ。

◎「会社に行きたいのに行けない」の心理

前回書いたように、「死にたい」の裏側には「生きたい」が隠れている。
「自分らしい生き方」や「自由な生き方」が損なわれた時、絶望の中で人は「死にたい」と思う。
それは「本当だったらこう生きたい」という内側の想いが、現実によって否定されたことで生じるものだ。
だからこそ、「死にたい」の奥を探っていくと、「自分が本当に望む生き方」がわかるわけだ。

しかし、「失敗をして死にたくなる」という場合には、事情が違ってくる。
この場合も、本人は主観的には「あー、やってしまった…。もう死にたい…」と思うだろうが、厳密には「死にたい」ではなく「死なねばならない」と思っているのだ。

「~したい」は「心の欲求」であり、「~せねばならない」というのは頭由来の「偽(にせ)の欲求」だ。
だが、これらを普段私たちはあまり厳密に区別していない。
それゆえ、心由来の「本当の気持ち」と、頭由来の「偽装された気持ち」とを混同してしまっていることが非常に多いのだ。

たとえば、「会社に行きたいのだけれど、身体が思うように動かなくて行くことができない」という場合を考えてみよう。

本人は「会社に行きたい」が「本当の気持ち」のように思っている。
だが、本当に「行きたい」と思っているのであれば、身体は動いてくれるはずだ。

となると、この「行きたい」は頭によって偽装された「偽の欲求」であると見たほうがいい。
つまり、「会社には『行かねばならない』けれど、本当は『行きたくない』から身体が動かない」というのが真実の姿であるということだ。

もちろん、本人は主観的には「会社に行きたい」と思っている。
だが、実際には「行きたい」なんて心は望んでおらず、頭が「行かねばならない」と言うものだから、仕方なくそれに従っているだけに過ぎないのだ。

◎「したいこと」を誤認する私たち

このように、私たちの頭は「~せねばならない」という命令を、「~したい」という形へと巧妙に偽装する。
それゆえ、しばしば私たちは「自分の欲求」を誤認してしまう。
主観的には「これが自分の『したいこと』なのだ」と思っていても、実際にはそれは頭が生み出した強迫観念であることが、非常に多いのだ。

「死にたい」の場合にもこれは当てはまる。
前回の記事でも書いたように、心から発した「生きたい」は、反転して「死にたい」になることがある。
だが、「自分はこういう風に生き“たい”」ではなく、「自分はこういう風に生き“ねばならない”」という思い込みから、「死にたい」が生まれることもまたあるのだ。

たとえば、さっきの「失敗をして『死にたい』と思ってしまう人」の例で言えば、「失敗をしたから死にたい」を反転すると、「失敗をせずに生きたい」という形になる。

だが、これは頭によって偽装された欲求だ。
実際のところ当人は「失敗をしてはならない」と思い込んでおり、「そこから外れたら死ぬ」と考えてしまっている。
つまり、「失敗をせずに生きたい」は心から生まれた真の欲求ではなく、頭が当人に押し付けている強迫観念に過ぎないということだ。

だから、「死にたい」と思った場合には、それが「本当はこんな風に生きていきたい」という「心の声」の反転なのか、それとも「必ずこういう風に生きねばならない」と言う「頭の命令」の反転なのかを注意して見ないといけない。
心が「こう生きたい!」と叫んでいるのか、頭が「こう生きろ!」と命令しているのか、きちんと区別することが大事なのだ。

◎「心に従う道」と「頭に従う道」

ちなみに、区別する際の目安は単純で、その声に従うことをイメージしたとき、エネルギーが内から湧いてくるかどうかによって見分けられる。

たとえば、「こんなことはしたくない、本当はもっとこれがしたい!」と心から思っているのであれば、その「したいこと」をイメージすると、自然と心はエネルギーを出してくれる。
元気が溢れてくるように感じられ、心身に生気が戻ってくるだろう。

反対に、「自分はこれをしなければならない」と頭が命令してきている時には、命令通りのことをするイメージをしても、エネルギーは湧いてこない。
ワクワクもしないし、活気も出てこないだろう。
人によってはむしろ元気がなくなる可能性もある。

さっき挙げた「会社に行かねばならないと思いながらも、本当は行きたくないと感じている人」の例で言えば、「会社を休んで家で寝ていること」をイメージすると、心身に生気が戻ってくる。
なぜなら、それが「心の欲求」だからだ。

反対に、「会社に行くこと」をイメージすると、生気が失われて元気がなくなる。
なぜなら、それは「頭由来の義務感」からきたものであり、「心に繋がった欲求」ではないからだ。

それゆえ、自分の「したい」が本当のところ「心由来の欲求」なのか、「頭由来の義務感」なのかは、エネルギーが湧いてくるかどうかで判断できる。
要するに、心に従って生きれば私たちは元気になり、頭に従ってばかりいると私たちは生気を失うようにできているのだ。

◎自分を許し、「心が発する声」を聞く

私たちが「死にたい」と思う時、その裏側には必ずや「生きたい」が隠されている。

だが、主観的には「死にたい」と思っていたとしても、実際のところは「死なねばならない」と思っているケースも多い。
それは「できることならこう生きたい」という「希望」の反転なのではなく、「必ずこのように生きねばならない」という「義務感」が反転されたものなのだ。

それゆえ、「死にたい」ではなく「死なねばならない」と思った時には、自分を縛っている「義務感の正体」を明らかにすることが重要だ。

自分はいったいどんな風に生きねばならないと思い込んでいるのか?

それを突き止めることで、どうして「死にたい」と思ってしまうのかがわかってくるだろう。

たとえば、
「どんな時も失敗してはならない」
「何があっても決して太ってはならない」
「親の言うことは絶対だ」
「常識から外れた生き方は許されない」
などなど。

人によって自分を縛っている観念はそれぞれだ。
どんな失敗もしないように神経を削りながら生きている人もいれば、「太ったら自分には価値が無くなる」と思い込んで命を削るようなダイエットをしている人もいるだろう。
親の言うことに盲目的に従って自分を押し殺している人もいれば、常識に縛られて窮屈な生活をしている人もいる。

いずれにせよ、そうした観念が義務感となり、当人の人生全体を束縛していく。
「こう生きねばならない」という思い込みが、やがては強迫観念となり、本人を苦しめるようになっていくのだ。

もしも自分を縛っている観念がわかったら、自分を許してあげることだ。
「完璧な人間」など、どこにもいない
失敗をすることもあれば、ダイエット中に食べ過ぎてしまうこともあるだろう。

そういう時には、ついつい自分を責めてしまうものだ。
だが、私たちの心は、本当は自分を責めることなど望んでいない。
本当に望んでいることは、「失敗なんか気にせずのびのび生きたい」ということであり、「外見なんか気にせずに美味しいものを味わって食べたい」ということなのだ。

私たちの頭はいつも心を抑えつける。
それゆえ、「心の声」は聞こえなくなりがちなのだが、時には耳を澄まして「自分の心」を聞いてみよう。

そこには私たちを元気にさせるエネルギーの源泉があり、私たちの人生を豊かにしてくれるヒントがたくさん隠されているのだ。