見出し画像

「死にたい」の裏側にある「生きたい」にスポットライトを当ててあげること

「死にたい」という言葉は、今日の社会においてよく見られる。
ふとした瞬間に自分でつぶやくこともあるし、SNSをちょっと見れば、どこかで誰かが「死にたい」と言っているものだ。

もちろん、「死にたい」の程度は様々だろう。
何かちょっと嫌なことがあって「死んでしまいたい」と思う人もいれば、「もう死ぬ以外に自分が助かる道はない」と思い詰めている人もいるだろう。

だが、程度の差こそあれ、この「死にたい」という言葉が発される時には、「何かから逃げ出したい」という願望があるように思える。

たとえば、学校の宿題から逃げ出したい、今日のバイトから逃げ出したい、自分が背負った借金から逃げ出したい、辛く苦しい人生そのものから逃げ出したい、などなど。

何から逃げ出したいかは人によるだろうが、そこには「自分ではどうすることもできない何か」からの逃避願望が表れている。
要するに、本当のところは「死にたい」のではなく「逃げたい」のだ。


◎「死にたい」は「生きたい」の表れ

「死」そのものを求めるということは、私たちにはまずない。
実際、「死」に深く魅了され、絶えず「死」について考え、機会さえあれば死のうとするような人は、世の中にはほとんどいないだろう。

「死にたい」は本当は「逃げたい」であり、もっと言うと「生きたい」の表れでもある。
当人は「死」それ自体を求めているわけではなくて、本当のところは「生きたい」のだ。

だが、その「生きたい」という想いが何らかの形で挫折する時、「もう死ぬしかないのではないか」という考えが浮かんでくる。

「本当は自分らしく生きていきたい」
「もっとのびのびと生きていたい」
「毎日を充実感とともに生きてみたい」

そういった様々な「生きたい」が何らかの理由で上手くいかなくなった時、人は「目の前の現実から逃げ出したい」という想いにとらわれ、無意識に「死にたい」と口にするのだ。

◎人は追い詰められると「死」以外に「出口」が見えなくなる

かく言う私自身も、過去に「死にたい」という想いに取り憑かれていたことがある。
当時は不安感やパニックの発作に毎日悩まされており、生きることそのものが辛かった。

また、何をしても心が動くことはなく、喜びや楽しさを感じることはほぼなかったし、食事の味もしなければ、何かをしたいとも思わなかった。
感情はすっかり失われ、日々の生活は無味乾燥で、「こんな人生がいつまでも続くなら、今すぐにでも死んでしまいたい」とよく思ったものだ。

だが、当時の私は決して「死」そのものを求めていたわけではなかった。

私は、できることなら不安感やパニックの発作に苦しまなくていい生活を欲していたし、「日々の生活に喜びや楽しさを感じたい」とも望んでいた。
つまり、私は「もっと生きたい」と心の底では望んでいたのだが、それがどうしても叶わなかったので、「さっさと死んでしまいたい」という方向に舵を切ってしまっていたわけだ。

だが、そうしたことは後になって振り返ってみて初めてわかる。
実際、「死にたい」という想いに取り憑かれているその時には、誰だって「自分の本当の気持ち」は見えないものだ。
というのも、「死にたい」一辺倒になってしまっていると、「自分はもう死ぬしかないんだ!」と思い詰めて、視野が狭くなってしまうからだ。

「死にたい」に取り憑かれることが苦しいのは、このためだ。
自分の本当の気持ちは「生きたい」なのだが、「死にたい」しか見えなくなってしまう。
それが「唯一の出口」ででもあるかのように思い込んでしまい、「他に方法はない」と絶望してしまうのだ。

◎「死にたい気持ち」ではなく「生きたい想い」にスポットライトを当ててあげる

私の場合は、その後、精神的に回復し、不安感やパニックの発作に悩まされることはなくなった。
感情も蘇ってきて、喜びや楽しさも感じられるようになったし、日々の生活にも満足できるようになっていった。

「死にたい」と思うことは今はもうない。
「死」は「唯一の出口」などでは全くなかった。
「生きること」の中に「出口」はあり、そこを抜けたことによって私の中の「死にたい気持ち」はきれいに消えてしまったのだ。

だから、もしも「死にたい」と思うことがあったなら、その底にある「生きたい」という自分の気持ちにスポットライトを当ててみる。
「死にたい」だけだと「死」しか「出口」がなくなってしまうが、「生きたい」に着目することで、他の視点も開けてくる。

「死ぬこと」によって自分はいったい何から「逃げたい」と思っているのか?
そして、その「何か」から逃げることによってどんな人生を生きたいと望んでいるのか?

そういったことを自問してみる。
そうして問いかけていってみると、「自分の本当の望み」が「死」ではないとはっきりわかるはずだ。

本当は誰もが「生きたい」と望んでいる。
ただ、その想いが一時的に挫折してしまっているから、「死にたい」と勘違いしてしまっているだけに過ぎないのだ。

◎「生きたい!」と心が叫ぶほど、主観的には「死にたく」なる

中には「死にたい」という想いが湧いてくると、自分を責めてしまう人もいるかもしれない。
実際、「こんなことを考える自分はダメな人間だ」とか、「死んだらみんなを悲しませてしまう」とかいった風に考えて、「死にたい」という想いそれ自体を無意識に抑え込もうとするのはよくあることだ。

だが、「死にたい」は「生きたい」の裏返しなので、「死にたい」を抑圧してしまうと、「生きたい」も一緒に抑え込まれてしまう。
私たちの心は、「死にたい」という形で「生きたい」という願いを叫んでいるので、「死にたい」を抑圧してしまうと、心自体が抑え込まれてしまうのだ。

言い換えれば、「死にたい」という声を抑えることは、自分自身の「生きたい」という声まで無視することに繋がる。
無視された心は「生きたい!」ともっと大きな声で叫ぶが、本人はそれを「死にたい!」という言葉に無意識に変換して聞く。
本当は強く「生きたい!」と望んでいるのに、主観的には「死にたい!」としか思えないのだ。

それゆえ、抑え込まれた「生きたい!」は、もっと大きな「死にたい!」になって本人のことを苦しめることになっていく。
心が「生きたい!」と叫べば叫ぶほど、本人はよりいっそう強く「死にたい!」と思うようになっていってしまうのだ。

だが、「死にたい」という気持ちは自然なものだ。
それは「生きたい」が何らかの形で挫折してしまっているというサインであり、誰もが人生を生きたいように生きられるわけではない以上、「死にたい」と思うことがあるのは、ある意味で当たり前のことと言えるだろう。

◎自分の中の「生きたい」に自覚的であること

もしも「死にたい」と思った時は、「死にたくなってしまう自分」を責めるのではなく、「自分の心は本当はどう生きたいのだろう?」と自問してみることが大切だ。

「死にたい」の裏にはいつも「生きたい」が隠れている。
「自分の本当の望み」が隠れているのだ。

もちろん、その「望み」が叶いそうにない時もあるかもしれない。
だが、もしもあなたが絶望して「死にたい」と思うことがあったとしても、「心が生きたいと望んでいること」についてだけは、せめて自覚的であってほしいと思う。

なぜなら、「自分の心」を自分自身で無視することほど、寂しいことはないからだ。

【追記】
今回の記事を書いた後に、「『死にたい』にもバリエーションがある」ということに思い至った。
人は「死にたい」と思うだけでなく、「死なねばならない」と思い詰めることもあるからだ。

それについては、下の記事に書いているので、興味のある人はそちらも読んでみてほしい。