「嫌だ」という感覚を大事にする
私たちが「自分」を主張しようとする時、最初に出てくるのは「嫌だ」という感覚だ。
「したいこと」が出てくるより前に、「したくないこと」が出てくるのだ。
実際、「自分のしたいこと」がわからない場合、いくら考えてみてもなかなか答えは出てこない。
そういう時には、「それなら何を自分はしたくないだろうか?」と問いを反転させてみる。
「したいこと」はよくわかっていなくても、「したくないこと」は案外はっきりしているものだ。
「これだけは嫌だ!」というものが誰でも一つや二つは出てくるだろう。
だが、何かを「嫌だ」と感じること自体を、私たちは「悪いこと」のように思っている。
なぜなら、「何でも受け入れなければならない」とか「どんな時も我慢しなければならない」と、何度も教えられてきたからだ。
◎「嫌だ」と主張することで私たちは「主人」になろうとする
「嫌だ」と主張することは「我がままなこと」とされ、何も文句を言わずに周りに従うことが奨励される。
実際、何かにつけて「嫌だ」と言う子は、親から「聞き分けがない」と言われて非難されるが、文句を言わない子は手がかからないので親も安心する。
要するに、私たちの「嫌だ」が封じ込められてしまうのは、そのほうが管理しやすいからなのだ。
「あれも嫌、これも嫌」と言っていると、「それならいったい、何ならいいの?」と聞かれる。
でも、そういう時、往々にして私たちは何も答えられない。
というのも、何か「したいこと」がはっきりあって「嫌だ」と主張しているわけではなく、「とにかく嫌だ」という感覚が内側から込み上げてきているだけだからだ。
だが、それは良い兆候だ。
なぜならそれは、私たちが「自分」を獲得する時の「最初の仕方」だからだ。
そもそも、私たちは誰かや何かに管理されていたら、「自分」であることができなくなる。
私たちは「何かのパーツ」であることを余儀なくされ、環境に適応して言うことを聞くよう抑えつけられる。
そんな状況下にあって「嫌だ」と主張することは、管理に対する「反抗」となる。
「嫌だ」という主張の真の意味とは、「私に命令するな」ということだ。
私たちは隷属状態にあることをよしとせず、常に「主人」としてあろうと欲するのだ。
◎「誰かの主人」であることと「自分自身の主人」であること
だが、それは別に「他人の上に立ちたい」とか、「今度は自分が誰かに命令したい」とかいったことではない。
というのも、「奴隷ではなく主人でありたい」という欲求は、「他人によって決められるのではなく、自分自身で決定したい」ということを意味しているからだ。
だから、「主人であろうとする欲求」とは、決して「支配欲」のことではない。
「支配欲」に駆られている人間は、実際のところ「主人」などではない。
なぜなら、たとえ誰かを支配できたとしても、「支配欲」に駆られている人は「支配すること」に依存しているからだ。
「支配欲」に取り憑かれている人間は、誰かを常に支配していないと自分を保つことができない。
彼は「支配したい」という欲求に支配されており、「自分の奴隷」に隷属している。
「奴隷」が一人もいなくなってしまったら、他でもない「支配者」が一番困る。
一見すると「支配者が奴隷を支配している」かのように見えるのだが、実態としては、「支配者」は「奴隷」に依存しているのだ。
それに対して、私たちが「主人」であろうとする時、私たちはむしろ「依存的な関係」からの脱却を求める。
それは「自立」・「独立」の欲求の表れであり、「自分のことを自分で選択したい」「自分の人生を自分で決めたい」という自己決定への欲求の表れでもある。
その時、私たちは「誰かの主人」であることではなく、「自分自身の主人」であることを求めるのだ。
◎「嫌だ」という主張は「自由」への足掛かり
たとえ「したいこと」がわからなかったとしても、まず「したいことをするための自由」を獲得しなければ何も始まらない。
それゆえ、最初にまずその「自由」を獲得するために、私たちは「嫌だ」という自己主張をすることになる。
「命令されること」や「強制されること」をよしとせず、「自分のフィールド」を獲得すること。
それが「嫌だ」という主張が目指すものなのだ。
だが、この「嫌だ」という言葉は、周囲によって子どものころから徹底して抑え込まれる。
一方で「主体的でありなさい」と教えておきながら、同時にもう一方でその芽を摘むのだ。
「主体的であれ」と教える時、ほとんどの親や教師は「だが、私に反抗しない範囲で」という但し書きをつける。
彼らは、自分の手をわずらわせない範囲でしか子どもに「自由」を認めようとしない。
だが、それは無理な話だ。
人が「主体的」になるためには、まず最初に必ず「ノー」を表明するところから入る。
親や教師の支配から脱し、「自分のフィールド」を獲得するために、子どもは必ず「反抗」するのだ。
◎「反抗」なくして「主体性」なし
「反抗はするな。しかし、主体的ではあれ」と求めることは不条理だ。
「主体性」は「反抗」なくして獲得されない。
「反抗」しないまま「主体的」であるように見える人も世の中にはたくさんいるものだが、そういう人は、自分から進んで周りの言うことを聞いている「過剰適応の状態」にあるだけだ。
そう、ある場合には、私たちは自分から進んで周りの言うことを聞く。
なぜなら、そのほうが「面倒」がないからだ。
ルールもマナーも道徳も、人間関係を円滑にするための潤滑油だ。
もちろん、それらに表面的に従うのは、「必要な処世術」ではある。
だが、それらを守ることが至上命題になってしまったら、その時「自由」は不可能になる。
実際、私たちは「面倒ごと」を避けるために、「自由」を自分から捨ててしまうことがよくあるのだ。
嫌なことを「嫌だ」と言うのには勇気が要る。
「これ以上こんな仕事をするのは嫌だ」
「親は『こうしろ』と言うけれど、そんな道には進みたくない」
心の底ではそう思いながらも、「嫌だ」とはっきり口にできず、ズルズルと敷かれたレールの上を走り続けてしまっている人も多いだろう。
確かに、「反抗」しなければ「面倒ごと」にもならないし、相手との感情的な「衝突」もない。
場合によっては、「従順な振り」をすることで相手に保護してもらえることもあるかもしれない。
そして、だからこそ、少なくはない人たちが「反抗すること」を捨ててしまう。
「このままでいいんだ」と自分の心に蓋をしたまま、自分を偽って生きていってしまうのだ。
◎自分の心の声を尊重すること
「嫌だ!」というのは心の叫びだ。
決して頭の計算ではない。
そして、私たちを生かしているのは、あくまでも心であって頭ではない。
心を殺したまま生きていっても、人生に充実感は得られないし、自分の生き方に納得もできないだろう。
なぜなら、「これでいいんだ」といくら頭で言い聞かせてみたところで、心は叫び続けるからだ。
自分の中の「嫌だ」という声を、私たちはもっと大事にしたほうが良いと思う。
それを「いけないことだ」と言って抑え込むことに、私たちは染まり過ぎている。
それゆえ、瞬間的に「嫌だ」と思うことがあっても、私たちはいつもそれを無意識に抑圧する。
その手際があまりにもいいものだから、「嫌だ」という感覚を感じる前に、私たちはそれを自分からも見えないところへ引っ込めてしまう。
その結果、私たちはだんだん、自分が何を「嫌だ」と思っているのか、自分でもわからなくなっていってしまうのだ。
「ノー」がないところに「自由」はないし、「反抗」を経ることなくして「主体性」というものは育たない。
自分が何を「嫌だ」と思っているかについて、もっと自覚的であろう。
「ノー」は「自分自身の根っこ」であり、心が「自己」を主張する際の「一番最初の声」なのだから。