「自分自身」である勇気
私たちが「自分自身」であろうとすると、私たちはたちまち社会からはじき出される。
なぜなら、社会は「従順な駱駝(らくだ)」しか受け入れないからだ。
「駱駝」は言われたことをよく守り、決して反抗することがない。
他人が載せる重い荷物を喜んで背負い、社会に順応しようとする。
それゆえ、人は「駱駝」であればあるほど、学校では「いい子」と言われ、会社では「立派な社会人」として評価される。
だが、誰もが「駱駝」であり続けられるわけではない。
なぜなら、私たちにはみな「個性」というものがあるからだ。
誰も他の人と同じではなく、いかなる型にもはめることはできない。
無理やり型にはめようとすれば、必ず歪みが生じてしまう。
もちろん、歪んだままでも順応できる人はいる。
そういった人は「駱駝」であることを苦にしない。
だが、「駱駝」であることに耐えられない人たちも一定数いる。
そして、そうした人たちは社会から落ちこぼれ、「出来損ない」のそしりを受ける。
ある少女がいた。
その子は、授業中でも落ち着いて坐っていることができず、先生の話を集中して聞くことができなかった。
彼女はいつも動きたがり、ジッとしていることができなかったのだ。
教師たちは彼女を「問題児」と見なして、何とか「矯正」しようとしたが、どうしてもうまくいかなかった。
そこで、心配した母親は、彼女を精神科医のもとに連れて行くことにしたのだった。
母親は学校での様子などを精神科医に説明し、娘は緊張しながら横でそれを聞いていた。
少女の中には、「これからいったい何が始まるのだろう?」という不安があったことだろう。
そして、話が一区切りつくと精神科医はこう言った。
「お母さんと話があるから、君はこの部屋でちょっと待っていてくれるかな?」
少女はうなづき、精神科医と母親は部屋の外へと出ていった。
ただ、精神科医は部屋を出ていくときに、ラジオをつけて音楽が流れるようにしておいた。
その後、部屋の外に出ると、精神科医は母親に部屋の中をこっそり見てみるように言った。
部屋の中から気づかれないように外から覗くよう促したのだ。
そこには喜びいっぱいに伸び伸びと踊る一人の少女の姿があった。
その姿はまさに天使のようであり、美しさでもってあふれていた。
精神科医は言った。
「彼女は天性のダンサーです。今すぐダンスをさせてあげてください」と。
少女はその後、ダンス教室に通うようになり、大人になってからは世界的に活躍するダンサーとなった。
授業中に落ち着いて坐っていられなかった彼女の「個性」は、こうして見事に花開くことになったのだった。
「個性」とは、「突出」を意味する。
「平均的な人間」など、どこにもいない。
誰もが、いろんなところがデコボコしている。
だが、あまりにデコボコしている人間は、社会の中にうまく収まることができない。
それゆえ、「個性」が強ければ強いほど、社会からは追い出されてしまうのだ。
私たちが「自分自身」であろうとする時、社会は私たちに警告する。
「やめろ、決して反抗するな!今すぐ元いた列に戻れ!さもないと、お前の居場所はどこにもなくなるぞ!」と社会は言う。
実際、周りの言うことを聞いている限り、誰もが私たちのことを認めてくれる。
そこには何の軋轢もなく、私たちは安定して生きていける。
だが、ひとたび私たちが「自分自身」を主張し始めると、誰もがそれを非難する。
私たちは孤立無援になり、まったく孤独になってしまう。
この孤独から逃げ出すために、「従順な駱駝」に戻ろうとする人は多い。
だが、「個性」が強すぎて、戻れない人も少なくない。
そういう人たちは、無理して自分を社会に順応させようとした結果、精神を病んでしまうのだ。
結局のところ、「駱駝」で居続けることができない人、無理して「駱駝」でいようとすると精神を病んでしまう人は、孤独を受け入れるしかない。
ただ一人立ち、「正解」のない道を、案内していくれる人もいないままに、進んでいかなければならないのだ。
その時、人は勇気を試される。
「用意された答え」はなく、どこに向かえばいいのかを教えてくれる人もいない。
時には、まるで社会全体が自分に反対しているかのように感じる場合もあるだろう。
そこには恐怖がある。
「自分を受け入れてくれる人も場所も存在しないのではないか?」という不安がある。
だが、この恐怖と不安のただなかにあえて留まることによって、私たちは純化していく。
よりいっそう、「自分自身」になっていくのだ。
「駱駝」でいることのできない人は、「自分自身」になる他に道はない。
さもなければ、一生「駱駝」の振りをして、窮屈な想いをしなければならなくなる。
もちろん、「駱駝」であることをやめるのは恐ろしいことだ。
そこには恐怖と孤独が口を開いて待っている。
だが、その恐怖と孤独が、私たちの精神を成熟させる。
私たちは言いなりになることを拒否し、誰かの支えを期待することをやめ、自分の足で歩き始めるのだ。
もしも今、たった独りで苦しんでいる人がいるならば、どうか勇気を持ってほしい。
なぜなら、あなたは独りかもしれないが、決して本当の意味で孤独ではないからだ。
今この瞬間も、同じようにたった独りで戦っている人たちが大勢いる。
誰もが、「正解」のない道を自分の足で歩いているのだ。
「自分は独りだ」と感じた時は、そんな無数の「独り」を想像してみる。
彼らはみんな「勇者」であり、あなたと同じ「仲間」なのだ。