「生産性」は感性を殺し、「創造性」は心を生かす
文章を書き始める時、私は何を書くかあまりしっかり決めないことが多い。
というのも、何を書くかをあらかじめ決めてしまうと、書くことが「単なる作業」になってしまって耐えられないからだ。
ただ、「内容が整理されていたほうが読者は読みやすいかもしれない」と思って、話の流れをきちんと考えてから書こうとしたことも何度かあった。
だが、そういう時には決まって書き終えることができなかったし、たいてい途中から「予定と違うこと」と書き始めて脱線した。
とにかく私は「前もって決めた通りに」というのが苦手なのだ。
「もう既に決まっていること」を繰り返そうとすると、私はエネルギーが出てこない。
書いていて全然ワクワクしないし、自分の書いた内容に納得することもできないのだ。
しかし、昼間職場で働いている時には、なるべく予定通りに物事が進行するように意識している。
朝出勤したときに「今日すること」をリスト化し、なるべくその通りに実行するようにしているし、飛び込みで予想外の仕事が次々入ると、うんざりした気持ちになってしまう。
これはいったいどういうことか?
おそらく私は、職場においては「生産的なマインド」で働いており、書くことにおいては「創造的」であろうと努めているのだ。
◎「生産的」と「創造的」
「生産的」であろうとする時、人は何でも「予定通り」に進めようとする。
「いついつまでにこれを終わらせて、次に物事はこう進み…」と、スケジュールを綿密に管理しては、その通りに「自分のタスク」を実行する。
「生産的」である時、人は効率的に成果を上げるが、その過程を味わうこともなければ、楽しむこともない。
全ての事象は支配的に管理され、私たちは「自分の仕事」をコントロールしようとするのだ。
それに対して、「創造性」は偶然を愛する。
人が「創造的」であろうとする時、決まり切ったもの、硬直化したものは「死んだもの」とされ、受け入れられない。
そこでは、「予想外のもの」が求められ、当人は「自分自身でコントロールできる範囲」を超えていこうとする。
言い換えれば、「自分の限界」を超えようとするのだ。
反対に、「生産的」である時には、当人は「自分の限界」の内側におり、何でも思うようにコントロールすることができる。
そこにいる間は極めて安全であり、何の心配もいらない。
全ては「予定調和」であり、「既に知っていること」の繰り返しだ。
「生産的な労働」とは「機械的な反復」であり、この「反復」が私たちの感性を殺してしまう。
私たちの神経は鈍麻し、もはや繊細でも鋭敏でもなくなる。
むしろ、感性なんてあってはならない。
なぜなら、「生産的な労働」の場においては、人は「よく動く歯車」でなければならず、「よくできた道具」でなければいけないからだ。
◎「生きているもの」と「死んでいるもの」
「生産的」である間、人は決まって誰かや何かの「道具」になっている。
その誰かや何かに効率的に奉仕するために、私たちは「都合のいい道具」であることを求められる。
「効率的な奉仕」のためには、個性や感性など余計なものだ。
それゆえ、「生産性」を追求すればするほど、人はロボットに近づいていき、無個性・無感覚になっていくのだ。
それに対して、「創造的」である時には、私たちは「自分自身の主人」になる。
「誰かの奴隷」であることをよしとせず、「自分の表現」をおこなおうとするのだ。
そして、そこではむしろ個性と感性が歓迎される。
人は「創造的」である時には無個性・無感覚であってはならず、「死んだロボット」ではなく「生きた人間」であることが求められる。
それによって「生きているもの」が生み出され、この「生きているもの」が感性のまだ死んではいない人々の心を揺り動かすのだ。
詩人の茨木のり子さんは、こんな詩を書いている。
「生産的」に働く時、人はたくさんのものを生み出すが、それは「死んでいるもの」の大量生産だ。
そこには「質」が伴っておらず、ひたすら「量」だけが求められる。
もちろん、そのような「生産的な労働」は「便利な消費財」を絶え間なく生み出し、私たちの生活を快適にしてくれる。
だが、本当の意味で私たちを豊かにはしてくれない。
なぜなら、それらはみんな「死んでいる」からだ。
だが、現代の社会においては、多くの人たちが「生産的に働くこと」を余儀なくされている。
そこにおいては「創造性」を発揮する余地などなく、いかにして効率的に「消費財(死んでいるもの)」を大量生産するかが全てだ。
私たちが「創造的」になることによって初めて、「生きているもの」は生み出される。
それはただやみくもに消費されるのではなくて、人々に深く味わわれる。
そして、その「味わい」が人の心を生かすのだ。
◎「生産的に生きること」によって人生は色あせていく
どこの職場においても、決められた役割があり、決められた職務がある。
人はそれをただ機械的に遂行するよう求められ、「逸脱」は決して許されない。
たとえフリーランスであったとしても、顧客の要望に応えることに汲々とするあまり、当人が「生産的な機械」になってしまう場合は多いだろう。
そうして「死んでいるもの」が大量に生み出されていく。
茨木のり子さんは「生きているもの」と「死んでいるもの」は一緒に並んでいると書いたが、今の時代は「死んでいるもの」だらけだ。
たとえば、百円ショップやスーパーに行って「生きているもの」に出会える可能性はまずない。
そこには、決まった規格の既製品しかないからだ。
だが、私は別に「生産的に働くこと」を「悪」だと言いたいわけではない。
なぜなら、「何かの歯車」となり忍耐強く働くことによって、私たち自身の活力や生命力が支えられる部分もあるからだ。
私は無職や引きこもりだった期間が長かったからわかるのだが、「働くこと」から遠ざかっていると、人は活力を失って無気力になりやすい。
たとえそれが「他人から命じられた労働」であったとしても、「ほどよく働くこと」は心と身体を健康に保ってくれるのだ。
ただ、問題は「生産的な労働」だけによって生活が埋め尽くされてしまう場合だ。
絶えず人から命令され、予定されている通り効率的に生産することを余儀なくされ、物事をコントロールしようとして四苦八苦する。
そんな時間だけが生活の全てになってしまったら、生きることは色あせていってしまうだろう。
◎「創造性」とは私たち自身の「意識の質」のこと
だから、誰もが「創造的である時間」を持つべきだと私は思う。
別に、必ずしも何かを創り出す必要はない。
ただ、「ロボット」であることをやめて、「人間」であろうとすればいいのだ。
「創造性」というのは「特定の行為」のことではなく、私たち自身の「意識の質」のことだ。
実際、人は「創造的」に絵を描くこともできれば、「生産的」に絵を描いてしまう可能性もある。
それは私たち次第だ。
たとえ絵を描かなかったとしても、あるいは、踊ったり歌ったりしなかったとしても、「自分らしく過ごすことのできる時間」が持てたなら、それは「創造的な時間」になりうる。
何であれ、自分の心が欲していることを愛を持っておこない、そこから現れてくるものを大切にすればいいのだ。
本を読むのもいいだろうし、瞑想をしてみるのもいいかもしれない。
ただし、「生産的」にはおこなわないようにする。
知識をたくさん溜め込むために本を読んだり、「生産性」を上げるために瞑想をするのではなく、あくまでも自分自身を満たすためにそれをおこなうことが重要だ。
ところで、「生産的に絵を描くこと」がありうるなら、「創造的に労働すること」も可能なように思える。
なぜなら、さっきも書いたように、「創造性」とは「特定の行為」のことではなくて、私たち自身の「意識の質」のことだからだ。
ただ、多くの職場において私たちは「一人の自由な人間」であることよりも「生産的な機械」であることを求められるので、「真に創造的であること」は難しいだろう。
だからこそ、多くの人は労働によって日々が埋め尽くされていった時、「創造的」になれる自由な時間が取れず、人生が色あせていってしまうのだ。
◎「我がまま」になる時間が、私たちの心を生き返らせる
「創造的」である時、人は「生きているもの」を生み出し、「生産的」である時、人は「死んでいるもの」を生み出す。
それらは一見すると見わけがつかないが、感じてみると心でわかる。
私たち自身の感性が死んでいないなら、その違いを感じることができるのだ。
だが、「生産性」によって生活を支配されてしまうと、私たちの感性は死んでしまう。
結果、「死んでいるもの」に囲まれながら生活していて、そのことにまったく気づかなかったりする。
ただでさえ、自分の心が死んでいるのに、その自分の心を生かしてくれる「生きているもの」と無縁な生活をしてしまうのだ。
心が死んでしまっている人は、「生きているもの」を探すことも大事だが、まず自分の心を生き返らせることだ。
なぜなら、心が死んだ状態のままでは、そもそも「生きているもの」を見分けられないからだ。
自分の心を深く満たしてあげること、嫌なことには「嫌だ」と言うこと、そうやって「我がまま」になる時間が私たちの人生には必要だ。
「我がまま」とは「我のまま」ということであり、「自分自身であること」だ。
もっと「創造」しよう。
自分の心が真に欲することをおこない、その時間をあたかもゆっくりと溶かすように味わうのだ。
そうした時間が、私たち自身の心を生き返らせる。
そして、「生きているもの」を感じ取るアンテナを蘇らせてくれるのだ。