「人権」とか「配慮」とかいう、時代の嘘2


続き


「配慮」ってなんなんだろうな。完璧な「配慮」について考えると脳がバグる。「良かれと思って」嫌われる事があるわけだし。個人の価値観を尊重するなら、自分と違う立場の人間をバカにする瞬間ってのは必ずと言っていいほど発生するもんだと思うし。上の立場の人間への「配慮」が「忖度」とされたりするわけじゃん。「マナーを押し付けるのが一番のマナー違反」みたいな話もあるし。

例えば、自分も障がい者だけど「障がい者に対する理解や配慮が足りない」って誰かに怒るのも違和感があって、じゃあ他者を理解して配慮することが苦手な人格障害なんですーって場合どうなんの?みたいな。
誹謗中傷ツイートしまくってる人が自分の障がい者手帳の写真貼り付けてイキる光景は散々見てきたし。
言い方もさ、「障害者」ではなく「障がい者」って言うみたいなやつ、今変換しててもキーボードは2種類出してくるし、なぜか「人格障害」は「人格障がい」に変換されないんだよね、差別か?「性的指向」と「性的嗜好」は違うとかさ、そこは個人の価値観の尊重とか関係ないのかよってなる。
「サイコパス」叩きとかも、個人の先天的な脳の性質みたいなものって叩いていいんか?って思ってしまう。
でもこういう揚げ足取りじみた思考を投稿して変にバズると責任取れないし、あんまコメント欄とかTwitterでは言わないようにしてきた。沈黙は金。立場上、傷つくような上から目線の無理解なネタなんてそれこそ毎日各メディアから流し込まれるけど、それだけ発言の自由がまだ残ってるんだなあってポジティブに解釈して受け流す努力をしてる。それが自分にとっての周りへの「配慮」。人権運動するタイプの人からすれば「それは強者に楯突く勇気がないだけじゃないですか(笑)?」って鼻で笑われそうだけど。
(「特定の誰かをイメージして被害妄想拗らせるのはやめようね」〜親愛なる自分へ、自分より〜)

ただ、自分がnote書き始めた頃より世の中の配慮に対する意識って緩んで雑になったようにも思える。思い込みかも知れないけど。やっぱみんな疲れたのかなって。

そう、疲れるんだよ、結局は。正しいことを続けるとどっかで発散したくなる。
コロナ禍だって最初は消毒やマスクに躍起になってたけど時間経過とともになあなあになっていった。

揺り戻しというか、配慮に限界が来て昔のやり方に戻ろうとする力を感じる。「エッセンシャル思考」とか「ミニマリズム」とか、やっぱ他人の顔色伺って自分の言動を制御するのやってられないわって。だけど他人に目を付けられたら終わりだから、出来るだけ他人との関係自体を切ったり、厳選する。「触らぬ神に祟り無し」。
これだけSNS社会になったのに「実際他人の人生なんてそんな興味ないですよね(笑)」みたいな意見を目にする機会が増えた気がする。それが強がりなのか本音なのか判らないけど、そう言ってもいい空気や場所は生まれつつあるってことだろう。
この「場所選び」が重要になってきたってことはわかる。「デジタルデトックス」も流行ってて、現実に居場所を移して幸せになりました!って人もそれこそnoteでも見るけど、それはかなりハードルが高くて人を選ぶ、現実に居場所が無いからネットに依存する人間が多いと思うし。
そうなるとネットの中で場所を移動して、そもそも配慮しなくて済む空間を見つけなきゃいけない。自分もこうやってnote書き始めたのは、そもそもTwitterが凍結されて鬱憤晴らしの文章を投稿したのがきっかけだったと思う。広場の締付けが厳しくなって、小さな飲み屋に逃げて文句を垂れたりくだを巻いたりする。その小さな飲み屋のようなコミュニティがネットに乱立してて、人によっては5ちゃんねるだったり、ガルチャンだったり、みすきーだったり、YouTubeの炎上まとめ動画のコメント欄だったりする。
だけど結局はインターネットという大きな蜘蛛の巣に捕まってるわけだから、調子に乗って言いたい放題言ってたら結局裁判沙汰になるんだけど。
あんま見たことないけど、好き嫌いとかいうサイト?はそういう流れの典型だろうなって解釈してる。

自分はなんだかんだテレビに思い入れのある人間なんだけど、テレビやテレビを主軸にしてきた芸能人なんかは如実にそういう場の空気を読んだ顔の使い分けが出てるよなって感じる。地上波と配信では別の顔を見せるというか、かつてはそれがラジオだったんだろうけど、今はどうなんだろう?ラジオは割とコンプラ監視対象になってそうなイメージだけど。
使い分けるにしても、もはや逆張りじみてきたなと思う。
「地上波ではできません!」って感じの。
こういうのはテレビだけじゃなくて、ネットのエロコンテンツなら「YouTubeでBANされたアーカイブです!」みたいな話で、規制に引っかかったことを売りにする手法。
平成末期の炎上社会で色んな文化が死んだように見えるけど、実はより過激になって復活してるように感じることがある。コンビニエロ本とかレースクイーンとか、あんまり突っ込むと広まっちゃうから嫌なんだけど、結局何だったんだよあの騒動はって最近バカバカしくなることが多い。
何が言いたいかって言うと、本質的には世の中が言う「配慮」って実のところ「圧力」だったりして、やってることは「空気読み」なんですよね。別に芯の通った思想や思いやりがあるわけじゃなくて、商売や社会的立場に悪影響が出そうなら控えるし、大丈夫そうならいくらでも好きにやるってだけ。
まあ理想主義の綺麗事を掲げて締付けを厳しくやりすぎたせいで、そのストレスから各方面にしわ寄せが行ってるような時代だと思ってる。
「人権」とか「配慮」に大真面目に悩んで振り回されたけど、それって実現可能な目標じゃなくて、そう言っとかないと誰も意識しないでしょ?バカだから。って「圧」なんだろうなって。
なんかだらだら語っちゃったけど、結論としては、坂口安吾の『堕落論』みたいなことが言いたかったわけです、下手でごめんね。

SDGs

SDGsに関してはバカだからよくわかってない。個人的には今まで散々先延ばしにしてきた問題をいよいよ解決不能になってから本腰入れ始めて最後のあがきを見せてるんだろうなと思ってる。我ながらニートである自分の人生に重ねすぎだけど「今更おせーよ」感がすごい。焼け石に水、後の祭りってね。まあ人間って意外としぶといし世界は終わりそうで終わらないのかもな、とも思うけど。SDGsとか言い出す前に、食にしろファッションにしろ恋愛にしろ、色々自分勝手に楽しんで人生の醍醐味を謳歌して勝ち逃げしたかったなーっていうクズゆえの後悔もある。モラトリアムやってないで競争社会に参加しろ若い頃の自分。「動け、動け、動けよぉ!」(碇シンジ)いつまでも、あると思うな、親と金と地球。つって、まあ平成が良い時代だったと思えるのは大衆も自分も現実逃避してたからこその錯覚だったんだろうなーって最近思う。でも現実逃避は楽しいから仕方ないよね、わぁい、現実逃避、あかり現実逃避だいすき!

むかしポカリのCMソングでミスチルが歌ってたじゃん?

『生まれたての僕らの前にはただ 果てしない未来があって それを信じてれば何も恐れずにいられた そして今僕の目の前に横たわる 先の知れた未来を信じたくなくて 目を閉じて過ごしている』

って感じのやつ。なんかあれ思い出す。だけど今は「目を閉じて過ごす」こともなかなか出来なくなって「椅子に縛り付けられて瞼をこじ開ける機器付けられて網膜から脳裏へと厳しい現実を焼き付けられる」ような時代だなって。気付いたら肌に「SDGs」って浮かんできてそう。
こんなん「今の時代の若者は可哀想」おじさんになっちゃうな。今の時代の若者は可哀想。

話すことなくなってきた、本でも勧めとくか。夏目漱石の『私の個人主義』って本が色々考えるうえで参考になって単純に面白かったので読んでくださいね。青空文庫で無料で読めたと思う。

おまけ

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