X(Twitter)から漂う終末感
「X(Twitter)をやめた(orやめたい)、移行先を探している」
こういう話をよく見聞きするようになった。noteだったり、アプリのレビューだったり、YouTubeだったり、様々なところで似たような話を散見する。Xになってから急速にオワコン化しているらしい。
僕自身は、記事を遡ってもらえば分かると思うけど、もうだいぶ前から凍結を食らってアカウントを作り直したものの、Twitter自体に嫌気が差して積極的に使うことは少なくなった。『非アクティブユーザー』っていうのかな、あんなに人生の大切な時間を捧げてまでやっていたのにね。
そんな僕だからXになってからのTwitterに詳しいわけではない。それでも辞めていく人達の意見には大抵共感できた。たまにXを触るだけでも明らかに不便になっていると感じるし、Xだけじゃなく他のプラットホームを使っていても、最近は課金を催促されるばかりで質も下がっているように感じるし、確実に『ネット社会』全体が大きく変わってしまったなと感じる。
X(Twitter)、そしてSNS社会はこのままオワコンになっていくのだろうか?だとしたら清々するような、逆に消化不良なような、なんともはっきりしない複雑な感情に襲われる。
Xに対する不満の中に
「いまだに男女論とか(その他政治など)で揉めてるのキモいし恥ずかしい、うんざり」
的な意見を結構見かけた。
すっげーーーわかる!!そしてだからこそ切ない。
なんでかって、僕はそれに壊されて、鬱になって、最近やっと文章でまとめて読んでもらうってことを実現できるようになったからだ。
フェミニズムに反論するような記事をいくつか書いた。まだ書ける内容も残っている。
だけど
「今の自分が書きたいか?まだこの話を続けたいのか?」
ってのは別で「この間まで悩んでいた時間と膨大な思考量を無駄にしたくない」っていう、勿体ない精神なところがある。過去の自分へのレクイエムみたいな部分がある。もう時代が変わって皆が関心がなくなってるなら、正直その方が生きやすいし、そういう争いを嫌と言うほど見てきて馬鹿馬鹿しくて付き合ってられない、見るに堪えないってTwitterを辞める人の気持ちは今の自分としてスゲーわかる。
それ以外の部分でも人間関係というか、コミュニケーションも全然上手くいかないしね。昔少しバズった時があって、特定を避けるため詳細は伏せるけど、めっちゃ怒ってくる知らない人がいて。自分としては悪意のないツイートだったから懇切丁寧に弁明したんだけど
「どんなに言い訳してもお前は取り返しのつかないことをしたんだ!これがネット民のやり方か!通報しておくからな!」
的なこと言われて(何だコイツ……)ってなったりしたな。おかずクラブって芸人の「これがお前らのやり方か~!」ってネタ思い出した。
それに『ネット民』て(笑)。僕から見たらお前がネット民なんだが……。
Twitterから離れてみると、もうぶっちゃけそんなのに付き合ってる場合じゃない、他にもっと大事なことや考えなければいけないことは山ほどあるし、考えてもどうにもできないクソ巨大な不安が多々ある時代だ。だからこそ余生は好きなことだけして過ごしたいという『終活』気分を感じることも増えた。いうて僕はまだ30代前半だけど、すでに気分は一気に老け込んでいる。SNSによる情報化社会の発達がそうさせたのかもしれない。
なんかチャーリー・ブラウンのAAであったよね。
「○○はもう終わったんだ。君も自分の人生と向き合う時なんだ」
みたいなやつ。原作にある台詞なのかは知らないけど。ありそうだよね。『ピーナッツ』ってたまに図書館で借りて読むと意外と深くてびっくりする。それこそ大昔に描かれてるだろうに「これもうTwitterのことじゃん!」みたいな秀逸な皮肉ネタがあったりするんだよね。Twitter辞めるとそういう世の中に溢れるレベルの高い作品と向き合う時間を如何に無駄に捨ててたか気づいてしまう。
最近よく自分の人生を振り返って思う。僕は「考えは先に行ってるけど、行動が遅い」人間で、だからこんなに人生に無駄に苦しんだんだなと。他者を先導する人にもなれず、周りと調和する大衆にもなれない。人より先に一人で問題を抱えて、間が悪い時に行動して、失敗する。その繰り返し。そんな僕だからTwitterとか今の時代は余計に相性が悪かった(ある意味では良すぎた)。
Twitterがオワコン化することについて「これからはTwitterやSNSに捕らわれないで生きられる時代になる」という解放感もあれば「結局自分は人生捧げてSNSで何も残せなかった」というわだかまりのようなものがある。悲喜こもごもって言うのかな、こういうの。
けど、SNSのすったもんだがまるっきり忘れられる、状況が全て変わってしまうってのもなかなか怖い。最近オタク文化関連の記事もいくつか書いたんだけど、やっぱり「前提となる知識や経験が共有されてなくて話が通じない」恐怖ってなかなかのもんです。
「Twitterってクソだったよな!」ということを語って共感を得られるのって今がギリギリなタイミングなのかなって思う。その「Twitterってクソだったよな!」という投げかけに(でも人生捧げちゃうくらい魅力的な瞬間はあったよね)っていう裏テーマみたいなものも、きっと伝わらなくなるんだろうなって。「へー」「なんスか?Twitterって?」「知らねーよそんな昔話…」みたいに。
Twitterが無くなったら「つわものどもが夢の跡ってこんな感じか」ってツイートしたい。どこでするんだよ。今するしかねえな、しとくか。
最近イラストを描くためにパソコンを買うという念願叶ったんだけど、Twitter無くなったらどこに投稿しようね?まあpixivとか、それこそnoteでいいのか。でもきっとどっかでTwitterの『神絵師』ってやつに憧れてた気もする。
僕も社会も今までTwitterに依存して、それが当たり前になってたんだとは思う。その他のSNSやWebサービスもだけど、他人に生殺与奪の権を握られてるような状況ってのはやっぱりいざという時都合が悪いね。もう昔みたいに『自分の居場所や好きなものは自分で見つけるor創る』ことが必要になるのかもしれない。もしかするとこの『インターネットの終末感』は『新たな時代の産声』で、これから『何かの黎明期』に入っていくのかも。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?