自分の障害について考えてみたこと

結構自分の障害について分からないところがあると思われるので、その点について書いていこうと思う。

1.自分のアイデンティティについて

何故か文章によってアイデンティティが違うのではないかということを思っていた。でもそんなことはないのではないか。僕は自分の文章が色々な人格によって形成されていると考えていたが、それよりも自分のアイデンティティが男性になったり女性になったりすることの方が問題ではないか。自分の内言というものがどこに形成されているかということは、自分の中でのことであって、それは見えていないが、ある意味で内言に加えて幻聴のようなものがあり、そちらの方が問題になっている気がする。

そんなことはあるけれども、自分の内面について考えていることは考えていて、もしかしたら僕は自分の文章をまた何も考えずに書けるようになれればそれが色々なアイデンティティで構成されているかどうかということについてはとりあえず脇に置いておいて良いのではないかということを思っていたのである。

狂気というものは深層に嵌っていることと関係していると思うのだが、そこからまた表層に上がってくるということがどのようにしたら可能になるのだろうか。何も考えないでいた時はやはり自分のことは男性だと思っていたから、男性だと思う状態に戻っていくことは良いことなのかもしれない。

僕はひとよりも誠実であることについてはかなり考える方である。

誠実であることについては、自分で考えるのだが、やはり問われた問いに答えること、それから自分で言ったことはできるだけ守ること、というのが挙げられるのではないか。ただこの場合、誠実であるということは、単に素直であるとか、そういうことだけには留まらないことだと思う。

素直というのは服従と結びつけて考えられるのではないか。

服従しているから、きちんと答えるというのではなく、服従していなくても、きちんと自分の考えたことについてしっかり相手に伝わるように言語化していくことが望ましいのではないかと思う。

そしてアイデンティティという問いに戻ると、何か自分のアイデンティティが男性になったり女性になったりするのは、これは、ジェンダーフルイディティではないかと思う。

ジェンダーフルイディティについては、これは有名人が自分がそうであると言っているケースがあるので、気になった人は調べてみてほしい。

僕については、やはりジェンダーフルイディティ現象で説明できるのではないかという考えはあるが、特に記憶までは入れ替わっていないし、自分の同一性も失われていないのではないかと思うから、これを障害として良いのかどうかはもしかしたら人によって迷うのではないかと思う。

むしろ、精神病様の症状が出ていたことの方が――客観的に見ても誰にでも分かるものだったし――問題だったのではないかと思う。

ジェンダーの揺れ、それをジェンダーフルイディティとするが、なぜ自分のアイデンティティが女性になったり男性になったりするのかは次のことに由来していると思う。つまり、自分の身体を眺めた時、それが女性の身体であるか男性の身体であるか少し分からなくなってしまうことがあるということである。

僕は自分の身体を眺めた時女性の裸体であるかのように感じることがある。

それは自分の身体が男性の身体としてよりは女性の身体として綺麗ではないかというこれは私の奇妙な考えである。

まるで、シュレーバー症例のようなことが僕に起こっているのである。

それは人目からすると、確かに奇妙なことであるように思う。

今は長髪にもしていないし、髪型という観点からすると男性のものにしている。

だけども、身体を眼差す時、例えばシャワーを浴びる時、それが女性の身体ではないかということをどこかで考えてしまう。

こんなことは、あまり知り合いに言えない。絶対に聴こえる範囲でこれを言ってしまうとセクシュアルハラスメントになるかもしれないと思うからだ。

匿名であるから、こういうことについて緊張することなく言えるのだと思う。

ただいずれにせよ自分の身体が女性の身体ではないかと思うことで僕は精神病圏に接続されているのではないかということは思ってしまうのである。

それは精神分析の意味においてである。

自分の身体のジェンダーが変わるということについて、トランスジェンダーであるということであれば、実際に精神病にはならないと直感的に思うのだが、シュレーバーのように自分の身体が女性化していくのを感じるという時、場合によっては精神病の症状ということになるということがある、ということになっているようである。

その意味で、自分が解離性障害であるとか、そういった診断名はやはり重要ではなく、そこで、自分のアイデンティティがどのように変容しているのか、そこに何か剰余的なものはないかどうかを考えることの方が重要ではないかと思う。

僕は女性の享楽、他者の享楽と言われてもピンと来ないが、剰余享楽と言われたらピンと来るのである。外面に言われたこと、書かれたことに比べて、内面におけるその言われていないこと、あるいは言われたことに対する効果として何か心の中に享楽的なものが発生しているケースである。

それは、確かに問題ではないかと思う。どうして、心の中に享楽が生じているのかということである。それは、もしかしたら確かに自分というものが変容している感覚、自分の内面に何か良からぬものが発生しているのではないかということである。

言われたことに関する剰余として、一種の気持ち良さが発生していないか、そしてその気持ち良さというのは得も言われぬものであって、なかなか公には言い難いものではないのか。

そのような享楽が発生しているケースとして僕の事例を捉え直すことはできないだろうか、と思うのである。

剰余享楽は次のように定義しよう。言われたことがあったとして、そこで言われていないこととして、またはそれを言ったということに対する効果として、何か気持ち良いものが発生しているケース、それを享楽と名付けるのがふさわしいケースを剰余享楽のケースと呼ぼうということである。

そうしたケースについて、どうしてそれが問題であるかというと、私は言語というものがあった時、それをどのように使うかについて、人間は必ずしも意識的ではないと思うが、それを無意識的に自分に都合の良いものにしてしまっているのではないかということである。

何か自分の動機にしたがって、言語を都合良いものにすること、そこに僕は何らかの抵抗があるのである。

まずそもそも動機というものが嫌らしいと思う。動機というのは、大体下心ではないか。そうした下心がある、ない、というのは結構分かるものであり、何も下心がない状態、そうした理想的状態を想定しなければやはりいけないケースがあるのではないかと思う。

そこでアイデンティティとして戻ると僕はやはり女性と寝たいという気持ちはある。それは、自分を男性として留め置くのに十分ではないか。性転換手術をしてまで、女性と同性として関わりたいという気持ちは(この場合の関わりたいとは性的な関係を結びたいという気持ちのことである)、もしかしたらかなり奇妙なことなのかもしれないし、その気持ちは非合理的であるのかもしれない。それは、女性とセックスしたいというケースにおいてである。

僕は何らかの意味で精神病圏に接続されていると幻聴が聴こえるのではないかと思う。僕の場合は実際に幻聴が聴こえている。

時として強くなるのは働いている時にそういうことがあるということである。

僕はアイデンティティと幻聴、それから剰余享楽と名付けたものには関連性があるのではないかと思っている。

自分の中に何か言葉にならないものがある時(言葉にせざるを得ないにも関わらず)、それはもしかしたら幻聴という形で主観空間のなかに現れ出るのではないかと思う。それはもしかしたら人間という生き物の非常に怖いことなのかもしれない。

アイデンティティについては以上である。

2.内面で起こっていることによる外面への結果

そしてこのように内面で幻聴めいたものが舞っている時、それはやはり外面に影響してくる。それは、特に何かミスをすることが多くなること、注意が上手く向かなくなることがあるということである。外の世界で起こっていることに関して意識が向かなくなることがあり、それは問題ではないかと思っている。

先程鍵を閉めたかどうか、それが分からなくなる。それは、内面でアイデンティティの混乱や幻聴等の主観の壊乱が起こっているから、外で起こっていることに関して注意が向かなくなるのである。

このような事態により、頭の中がおかしくなっていることと、外面的行動における失態の多さというものは関係してくるのである。

そうすると、やはり精神障害者保健福祉手帳を取得しようかという気持ちになってくるのである。

そこには制度的な救済はあるが、本当は病気ではなかった頃に戻りたい、病気ではなかった頃、世界を楽しく生き生きと生きていた頃に戻りたいという気持ちはどうしても湧いてくるのである。

3.そもそも内言とは何かということについて

私は基本的に内言をあまり感じていない方であったし、幻聴と内言の区別が今もあまりつかない。

このように幻聴と内言の区別がつかないという時、それは自我の境界にも関わってくるのだが、何が自分の思っていることで、何が自分の思っていることに対する他の領域での反応であると考えられるものであるか、それが分からないということである。

他の領域というのは、自分以外の他人、ということ、もしくは、自分の外にある領域の他者の領域のなかで考えられているものである。

自分がこう思ったら、他者は、それは○○ではないか?という批判をすることがあるだろう。批判は歓迎なのであるが、その批判を行っている他者と(今も「ツヴァイクとか…」という声が聴こえたが)自分との区別がつかなくなってしまうことはもしあったとしたら問題である。

自分と他者の区別が、精神病理学的空間においてつかなくなってしまうことは、自他未分になっているということであり、それは感動とかのケースでは健常者においても見られることであるが、常時そうなっていたとしたらそれはやはり辛いのではないかということである。

このように、とりあえず3点に分けて、自分の障害について書いた。

これを書くことによって自分の状態が少しでもマシになることを祈る。




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