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悪童日記のこと2024.3.13

「悪童日記」の稽古第1章が終わりました。去年の年度末に小説を読み込んで、初演・再演では掘り下げられなかったものを再度テキスト上でピックアップし織り込んだり抜いたりしながらパフォーマンスを作っていく作業。全体の手触りはそのままに、中身を濃くしようとする試みで、毎日朝11時から夜7時までの稽古はなかなかにハードでしたがとても充実しておりました。

一旦形になり、大きな積み残しは残りの稽古で解消し、小さな積み残しだけとなった状態で、1週間ほどお休みです。


双子を抱きしめる母

最終日に、ああ、この話は、私の母を肯定する物語なのだなと思いました。もちろん今回は別に私の話ではなく、ただただ「悪童日記」という小説のことを淡々とやっているだけなのですが、これまで何度も取り組んできたのに今回初めてそう思いました。双子が選ばざるを得なかった愛の形について、母もまた、あの生き方を選ばざるを得なかったのかと、腑に落ちるような感じがありました。

やっぱ私は好きな人には好きだって絶対言うし、言われたいし、抱きしめたいし抱きしめられたいし、優しい言葉をかけられたいよなーと思ったりしました。そのことで憎しみが起きたり、差別が起きたりすることもよく分かりながら、それでも愛情表現は、言葉がいいし、愛撫がいいよね。ヨシヨシしながら好きだよって、子供にも毎日飽きるほど言ってしまいます。

心から人を愛してしまうと、その人を万が一奪われたり、その人が自分から離れて行ったりした時に、私の中には想像もできないほどの憎しみが生まれるのかもしれないです。それが争いを生むのかもしれないです。でも、それを危惧して愛さないなんて、やっぱり、どうしても難しい。ああ、そうか、おばあちゃんはそうだったのか。だからおばあちゃんの愛情表現は、あのようになったのか。(ネタバレなので、言わないようにしますね/ネタ、と言う言葉はあまりそぐわないけれども)


達矢さんを紹介する佐々木ヤス子さん。

こんなふうに作品のことを突き詰めた結果、共感できなかったのは初めてで、共感できないってことは、とってもいいことで、つまりそれが何なのかが、朧げであっても見えているのだと言うことで、私はとっても嬉しいです。共感しなくても、解像度を高めてお見せできることが、それこそが、私の目指していた形のように思います。

再開は来週で、細部を詰めながら精度を上げていく作業に入ります。ご来場くださる方で、小説を読んだことのない方はぜひ、Wikipediaでもいいのであらすじを読んで見てもらえると嬉しいです。もちろん、小説を読むと震えますよ。映画もあります。

この映画、納得できないことがいくつかあって、小説のおばあちゃんはガリガリなのに、この映画のおばあちゃんは太ってるんだよね。広大な敷地にあるさまざまな畑と、多種多様な動物の飼育を一人でしているような人が、あんなに太ってるわけないって思うんだけどな。どうかね。

確定申告から逃げるために書いてしまいました。
戻ります。

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