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空想のアウトプット

昨日とあるアートに関するお話を聞きに行ったのですが…
そこで現代人は、歩くことが単なる移動手段になってしまって、
「歩く」を楽しむことが減ったという話を聞いた。

確かに、散歩を趣味としている人は別として、大半の人が移動手段だし、移動しながら、歩くことに意識を向けている人は少ないと思う。

こういう話を聞いて
「何当たり前のこと言ってんだ?だからなんだ?」と言っていた過去の自分。
「そうか、そういえばそうだよね」と感心できる今の自分

何が自分の中で変わったのかわからないのだけど…
最近の私は、「何言ってんだ!?」みたいな、気づきというか、小さな発見をした時、
「しょうもないことかもしれませんけど…」と前置きをした上で、
つい人に話したくなる。笑


でもそれって「しょうもないこと」なんだろうか?

子どもって、よく、「カタツムリの渦って右回り?左回り?」みたいな
「しょうもない」疑問を抱く。
こういう疑問こそが、知的好奇心がむくむくしている瞬間だし、
自分もまた、「しょうもない発見」や「しょうもない疑問」を
どんどんしていったほうがいいんじゃないか、ってふと考える…

そういう空想のアウトプットを
どんどんしていったら、なんかいい感じの「アート」って生まれそうじゃない?
という根拠のない予感

そんなことを湯船で考えていて、浮かんだ「空想のアウトプット」

かねてからやってみたいと思っていた、「インスタントカメラ撮影会」
構想は下記の通り。

夏の暑い日がいいなと思っている。
子どもにインスタントカメラを持たせ、撮影に行く。
撮った写真を確認できない不便さを感じる。
飽きるかもしれない。
押す動作を無闇にやるかもしれない。
24枚(だったかな?)取り切ったら、その足で
現像のためお店に行く。
現像を待つ間フォトフレームを作る。(1時間とも1週間とも記憶してるんだけど…)

木っ端をきる、色を塗る、プラスチックのプレートを当てる、引っ掛ける金具をつける
糸を通す…

写真の現像を撮りに行く。
いい感じの写真を選ぶ。いい感じじゃないのもある。
でも全部あの現像した時についてくる薄いファイルに入れる
タイトルをつける。
数年後には「なんだか捨てられないゴミ」になってしまうかもしれない。
だけど、その経験ってもしかしたら、
誰かの胸に残るかもしれない
刹那の記憶として蘇る瞬間が、その子の人生の中で数秒でもあるかもしれない


「不便な撮影会をした」という記憶をつくるアート。

やってみたい。

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