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人生のエクリチュール~ジャック・デリダ:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


パロールとエクリチュール

ジャック・デリダについて話していきたいと思います。ジャック・デリダは1930年にアルジェリアに生まれたユダヤ系のフランス人です。デリダといえば、 20世紀の終わりから21世紀初頭にかけて現代思想といえばデリダと言われるぐらい思想界隈ではスーパースターだった人です。彼の生み出した「差延」「散種」「代補」そして「脱構築」(デコンストラクション)といった数々の言葉はたいへんな流行となり、当時は数多くの書籍のタイトルで使われていたものです。

今回はデリダの使った言葉のなかでも、たいへん有名な「エクリチュール」という言葉に焦点を当てたいと思います。フランス語の「エクリチュール」は元来文章や文学といった意味の言葉ですが、デリダは、文字、テキスト、書かれたもの、書き残しといった多様な使い方をしています。

デリダがエクリチュールに注目した理由は、プラトン以来のヨーロッパの知的伝統がエクリチュールを軽視してきたことにあります。若いデリダはエクリチュールへの不当な低評価に強い批判意識をもっていました。そこから、エクリチュールに焦点を当て正当に評価することを基本的な姿勢とするようになります。

ところで、エクリチュールの価値が低いものだった背景は、やはりヨーロッパの文化、哲学、精神というものが話す言葉(「パロール」)を大切にしてきたからです。イエス・キリストは教えを自分の言葉で説いて回りましたし、ソクラテスは弟子たちと問答を繰り返ししていました。「いまここ」で話されている生きた人の言葉、その言葉に真正の価値があるのであって、それを書き残した言葉は、他に記録する方法がないから使われているだけの副次的なもの、本当の言葉の影という扱いでした。話される言葉は生きた本物の言葉であっても、書き残された言葉は死んだ偽物の言葉でしかなかったのです。

パロールは生きた話し手から離れては存在できません。話し手の存在がパロールの真正さを担保しています。それに対して、エクリチュールは書き手から離れても残ります。たとえ、書き手が死んでいても言葉は残りつづけます。結局、真正さを保証してくれる存在がどこにもないのがエクリチュールです。

私たちは何千年も前に書かれた古代文字を今も読むことができます。ただし、正しく読めているかはわかりません。というのも、もう書き手に真意を確かめることができないからです。そして、もしかしたら、その当時は文字と思わずに残した傷や汚れをいまの私たちが文字と思い込んでいるということもあるかもしれません。結局、エクリチュールは、書かれた過去と、それを読む現在とで、その意味を同じにとどめておくことができないのです。

エクリチュールには再現性がありません。読まれるたびにその意味を変えてしまうリスクが多分にあります。だから、多数の人に読まれるエクリチュールともなれば、読む人ごとによって意味が変わってしまいもします。SNSの世界では、そんなつもりで書いたわけではない投稿が誤解に誤解を呼び、あっという間に炎上をしていく様子を毎日のように見ることができます。エクリチュールは読み手がどのように読むのかをコントロールできないのです。

だから、エクリチュールは信用ならないと考えられてきたわけです。それでも、エクリチュールを否定し去ることはできないというのがデリダの主張です。


生き生きした経験と死んだ言葉

デリダの最初期のエクリチュール論は「声と現象」という著作にまとめられています。この「声と現象」はフッサールの現象学を批判する著作です。フッサールといえば、生き生きとした主観的な経験にこそ絶対的な価値を置いた現象学者でした。それに対して、デリダは現象学の評価する生き生きとした経験の根底には死んだエクリチュールが潜んでいると批判するのです。

デリダにしてみれば、エクリチュールを前提にしなければ、主観的な経験そのものが成立しません。いま目の前で「雨が降っている」のを経験するとき、この「雨」の経験は、しかし、純粋に主観的な経験と言えるでしょうか。日本は水の豊かな国です。「小雨」「霧雨」「雷雨」「氷雨」「土砂降り」「時雨」「春雨」と雨についての多様な語彙があります。同じ雨を見たとき日本語の文化に生まれた日本人と、他の文化に生まれた他の国の人が同じ経験をしたと言えるでしょうか?

「いまここ」の生き生きとした経験は、しかし、言葉なしに理解することはできません。そして、誰かに伝えるとなれば言葉を使わず伝えることはほぼ不可能です。さらに言えば、最初の経験の生々しさでさえもその経験をする前から身に着けていた言葉が影響していたはずです。雨の降り方に意識を向けることができること自体が、雨について多数の語彙をもつ日本語を身に着けていればこそなのですから。

私たちはかならずどこかの世界に生れ落ちます。生れ落ちた先の世界には、どこであれ、つねにすでに言葉が存在します。私たちより先に生まれた人たちの使う言葉を身に着けて、私たちも話すことができるようになるのです。したがって、言葉は同じ世界に暮らす人たちにとって共有のものです。誰かが占有することはできません。万人に開かれたものとして客観的なものです。

要するに、言葉がなければ人間は認識そのものができません。現象学の主観性は自身の視点で世界を経験するとはいえ、どこかに拠って立つ足場がなければそもそも視点を持つことができないのです。その足場こそ、言葉すなわちエクリチュールです。エクリチュールは人間の認識を土台のように支えています。反対に、エクリチュールの土台を離れて、空中で跳ね回るようなことはできません。一度でもその土台に立ってしまえば、二度と離れることはできません。永久に拘束されるものなのです。

エクリチュールは人間の主観的な経験を制限するものとして働きます。フッサールの立場からすれば、自分の経験を表現するために人間が主体的に言葉を選んでいくと主張したいのでしょうが、言葉はそう簡単に自由にはなりません。言葉は先に生まれてきた人たちが共有し、継承して、次の時代に受け渡していく、歴史あるものです。むしろ、この歴史のもつ重みが、個人の意識に影響して、個人の認識の方を変えていくものなのです。

現象学的な前提で言えば、「私」の主観的経験は「私」の経験です。他の誰のものでもありません。しかし、デリダの指摘によれば、主観的な経験は客観的なエクリチュールを前提とします。自身の経験を意味づけることにも、その経験を誰かに伝えることにも、言葉が必要です。

生き生きとした経験は疑っても疑いきれない私の真正な経験かもしれません。しかし、その経験はすでに誰かに使われた既成の言葉でなければ語れません。そこに矛盾があります。純粋な主観性の力を主張したフッサールに対して、主観性にはエクリチュールという客観性の不純物が混ざっているとデリダは批判をするのです。


未来へ接続する

エクリチュールは人間に不可欠なものです。人間は他の人間と暮らす社会的な存在だからです。ひとりで生きているのではなく、誰かと生きているのであれば、私がしたことを見ている誰かがかならずいます。私がいたという痕跡を覚えている人がいるわけです。すなわち、エクリチュールを読む人がいるわけです。

すべての痕跡はエクリチュールです。誰かが痕跡を見つければ、その誰かはその痕跡を読もうとするでしょう。そうして、痕跡は人と人をつないでいきます。人を人に接続すること、それもエクリチュールの性質です。実のところ、人間社会をつなぎとめているものはエクリチュールです。言葉を残す人がいて、その言葉を読む人がいて、人間の社会は成立しています。エクリチュールは人がひとりで生きていないことの証です。

さて、人間のキャリアとはエクリチュールそのものです。キャリアの語源は轍です。車が通った後に残る車輪の痕跡、それが轍です。キャリアはその語源からもエクリチュールです。

就職や転職では多くの人が履歴書や職務経歴書を用意するでしょう。自分のキャリアを書き出してまとめた履歴書や職務経歴書はエクリチュールそのものです。残念ながらエクリチュールなので、書き手がどんな思いで書いたとしても、読み手(採用担当や面接官)は勝手に読んでしまうものです。「ちょっと求めるものと違うキャリアですね」とか「キャリアに一貫性が感じられませんね」とか「この空白期間はどうしていたのですか」とか。好き勝手に意味づけをされてしまいます。

その意味でエクリチュールとは窮屈なものです。いちど書かれてしまえば、もう自分の思い通りにはなりませんし、勝手に未来を制限してしまいます。でも、いちど記されたエクリチュールはなかったことにはできません。

ただ、自分のキャリアの意味を他人に奪われてしまうというのは非常に苦しい経験ではないかと思います。だから、「生きづらさ」と呼ばれるものの本質は、おそらく、ここにあるのではないかと思うのです。自分のエクリチュールなのに自分の望むような読まれ方をしない。だから、苦しい。「生きづらさ」とは、そういうものなのでしょう。しかし、読み手をコントロールできないのがエクリチュールの本質です。それは、どうしようもない。

エクリチュールとはいかんともしがたいものですが、それでも、デリダはエクリチュールに未来と希望を託しています。読む人によって意味が変わってしまうということは、それだけエクリチュールは未来に開かれているということでもあります。

エクリチュールは意味を同一に保っておくことができないものでした。同じエクリチュールでも読まれるたびに、その都度、別様な意味が生まれていきます。この作用こそ「差延」ですが、そうして読むたびごとに差異が生じるのは、テキストが読まれる文脈が都度異なるからです。

昔読んだ小説の一説をいま読み返してみると別の意味として読めるという経験をしたことは少なくないでしょう。それは小説というエクリチュールを読む自分自身のおかれた状態、その文脈が昔と今とで異なるからです。SNSで思いもよらない炎上が生じるのも、元の投稿を目にした人の背景という文脈がすべて異なるからです。つまり、エクリチュールが接続された文脈が異なるのです。

デリダはエクリチュールに「接続可能性」という言葉を使っています。この接続可能性こそ、デリダがエクリチュールに託した未来と希望です。接続可能性があるからこそ、エクリチュールは人と人をつないでいくことができます。そして、ある文脈では望むように読んでもらえないエクリチュールでも、別の文脈では想像以上に好意的に読んでもらえるかもしれません。生きづらさのエクリチュールであってもいつかどこかで誇らしいエクリチュールへと接続する可能性は開かれています。

あるいは、自分自身のエクリチュールの読み方をまずは自分が変えることができれば、全く別のエクリチュールに書き換えることもできるかもしれません。エクリチュールに決められた意味はありません。意味はつねに開かれている。自身のキャリアもいつだって開かれているはずです。

エクリチュールは自由にならないものですが、反対に、あえて多くの人に自分のキャリアを見てもらうということもできないでしょうか。転職界隈でしばしば目にするグラノヴェッターの「弱い紐帯の強さ」という理論ですが、転職の際にはしばしば、家族や同僚といった日々のつながりの強い紐帯よりも、偶然に出会った人との弱い紐帯の方が有用なことがあるという理論です。強い紐帯の相手は自分のこともよく知っていますし、エクリチュールの読み方も固定的かもしれませんが、弱い紐帯の相手は全く別の読み方をしてくれるかもしれません。エクリチュールが思いも知らないところで思いも知らない読まれ方をして新しい意味を生み出していく。それをデリダは「散種」と呼びます。

私自身は、キャリア支援の本質とはエクリチュールの支援にあると思うのです。自分で書く自身のエクリチュールが自分にマッチしないとき、人は苦しみを覚えます。それが生きづらさにもなります。だから、人それぞれ自分にマッチしたエクリチュールとの付き合い方、エクリチュールの書き方、それができるようになれば、もっと人は幸せに生きることができるようになるのではないでしょうか。


【了】

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