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何のために歴史を学ぶのか?

「何のために歴史を学ぶのか?」
割と長い間、この問いに答えあぐねてきた自分がいる。恥ずかしい話だが、歴史学を専攻していた大学生の頃、私はこれにほとんどまともに答える事ができなかった(問題意識の高い周囲に対して若干の引け目を感じつつ、いかにウジウジしていたかについては拙著『〈憧憬〉の明治精神史』のあとがきにも書いた)。

それでも学生のころは、鹿野政直『歴史を学ぶこと』などの本を読んで、この問題をひとりで考えたりしていた。 

過去を知らないと、現在が絶対化されるのです。その意味で、過去を知ることは現在を相対化する。現在というのは、私がよく使う言葉ですが、秩序としてあるのです。秩序というとすぐ法を思い浮かべます。が、秩序をつくっているのは法だけではない。法は外を規制するのだけれども、道徳はさらに内面を規制する。もっとソフトだけれども、もっと規制力を持つのは慣習でしょう。「ぼくはどっちでもいいんだけど、まあ、結婚するなら大安の日にしよう」とか、「ことさら友引の日にしなくても」なんてことを思ったりする。そしてそれらの法、道徳、慣習が一つの権威として自分の内面にまで入っている。いましか知らなければ、これは絶対的なもの、動かせないものと思うわけです。しかし、歴史を知れば「アッ、あんな時代もあったんだ、そしていまこうなっているんだ。じゃ、いまも絶対ではありえないだろう」と過去のもつ呪縛力から自分をちょっとは楽にしてくれます。

鹿野政直『歴史を学ぶこと』(岩波書店、1998)p.31 ※引用に当たり改行を追い込んだ

当時、高校生に向けられたこのメッセージを読んで、「これは非常に大事な視点だ」と確かに思ったものである。しかし、どこかで何かが引っかかったままのような思いもあった。

歴史を学ぶ営為が、仮に自分自身の生きづらさの解消につながるとして、もしも自分がちょっと楽になるためだけに行なわれるのであれば、そのためにかかるコストは割高に過ぎないだろうか。損得だけで考えたら、私なら、我慢してしまうのではないか。

違和感というと大げさだが、最近も歴史総合について書かれた小川幸司さんの岩波新書『世界史の考え方』「はじめに」を読んだときにも、これに通じる似たような印象をもった。

「先生、歴史って何のために勉強するのですか?」と生徒から質問されたとき、多くの教師は「過去を知ることで、私たちがどう生きるべきかを考えられるからだよ」と答えるでしょう。

小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方』(岩波新書、2022)p.v

立派なのである。
翻って私は自信を持ってこのように答えられるだろうか。例えばもしも高校生や専攻決定前の大学1,2年生が「なるほどそうやって生き方を考えてきた人間がこの程度なら、じゃあYoutubeで芸能人の仕事観とかお金観とか見たほうがタメになりそうだ」みたいな顔をして去って行ったら、私は力強く引き留められるだろうか。歴史を深く学んだ人間は、どう生きるべきか、本当に明快に語れるものなのか。

これらの本が、歴史を学ぶ効用をいうとき、前提として想定されているのは、まず何をするにせよ、自分自身を、物事を認識し、少しでも世の中を変えるために行動していく主体として確立していく必要があるということであろう(もっと有り体にいえば、よき社会人としての自分になっていく、というところか)。実際、それはとても大事なのだが、そのように思う反面、私が言うと、途端に胡散臭くなってしまうのはどうしたらよいのか。もしかしてそれは単なるエゴイズムではないのか?と疑う余地を相手に与えてしまうような感じがしてもどかしかった。

授業で学生たちを前に、20年も歴史を勉強しているのに、ちっとも全然立派な人になってないじゃないか、という感覚がまだ強くあって、私にはそんな風に説明できないなと感じてきた。

それでも20年くらい歴史学を勉強してきて、自分なりに納得いくようになった「何のために歴史を学ぶのか」に対する自分の中での有力な答えが、2つほど見つかった。

1つは、変わり続けていく時代や社会の流れに翻弄されずに、新しい価値観を作っていくために必要というものだ。鹿野先生の言う今を相対化する話と似ているけれど、これは専門的に歴史を学んだ人が社会に対して明確に果していける「貢献」の具体的な形であると考える。たとえば新しいアイデア、斬新な企画を、前に誰かがやっていたらどうか。調べればわかることを調べないで第三者に指摘されて炎上するのではたまらない。新しいか古いかを判定できるようになるためにも、過去を学ぶのは必要ということだ。

過去の出来事は、現代人の価値観では到底理解できないこともある。歴史を学んでいるとしばしばびっくりする。ある意味では、歴史を学ぶこととは時間を介した異文化体験でもある。異質なものと向き合い、あるいは受け入れたりすることは、これからの時代の人とのコミュニケーションを円滑にしていく上でも大切だ。また新しい価値観を作るための材料も、過去に起きた出来事のなかには豊富に存在している。

思想史という領域も人の考えたことを材料に過去を語る分野だから、悪い部分を現代に合わせて修正したり、アップデートしたり、もしくは、それまで無関係に見えたもの同志を組み合わせることによって、新しい何かを生み出していくこともできる。そんな可能性を感じる。

しかし新しい価値観を作るということも、ちょっと独善的なところがある。だから、私は歴史を学ぶ理由を、次のこととセットで考えている。
すなわち2つめは、そのような新しい価値観を作っていくとき、自分たちが使えたリソースをできる限り他の人や次の世代にも伝えていくためにも必要ということ。これは史料整理や史料保存の話でもあり、持続可能な研究ということでもあり、社会全体のアーカイブの機能を拡充していくことにもつながる。

人はいつか忘れてしまう。だから大事なことをちゃんと憶えているために、忘れないために歴史を作るというのは、大昔からこの学問に期待されてきた役割でもあるはずだ。

本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人の果たした偉大な驚嘆すべき事績の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである

ヘロドトス著・松平千秋訳『歴史』上巻(岩波文庫版)p.9

自ら研究調査したところを書き残す、ということが可能になるためには、研究調査できる基盤がなければどうにもならない。
作られては消えていくデジタル情報の保存と活用もそうだろう。歴史を書いて他の人に伝えるということも、歴史に対する認識を豊かにしていくことも大事ではないか。そういう仕事に従事できるならやりがいがあるのではないかと思うようになった。意外と、図書館に勤務していた経験はその辺に生きているのかもしれない。

私はこう考えて自分を納得させているけれど、かといってこの答えは1つに絞ることはできないと思う。それぞれがそれぞれの持ち場で、問題意識を持って自ら研究調査したことを述べていくので良いのだから。


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