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クラブ誕生前夜―なぜ古きコンササポは北電のSNSに感慨深くなったのか【ぼくのコンサ史・1章】

 シリーズ『ぼくのコンサ史』の1章である。この章は北海道コンサドーレ札幌が誕生するまでを書いた。(以下敬称略)


1.コンサドーレと北海道電力の「公然の秘密」

 先日、北海道電力(以下北電)の公式Xが次のような投稿をした。

このポストが、コンサポの皆様をざわつかせたみたいで大変恐縮です🤯💦
昔の経緯は諸先輩たちから聞いていて、それなりに理解してますが、正直『今は昔』です👍
電力会社も自由に選べるシビアな時代。会社としては何事も是々非々でいく所存🫡今後ともよろしくお願いします🙇
ま、個人的にはスポーツも芸能もアニメも大好物ですが❗
#コンサドーレ #consadole

北海道電力株式会社・公式X
(https://x.com/Hokuden_Kouhou/status/1798348746029400083)(2024/6/5投稿)

 北電がXでコンサに関する投稿をしたことにコンササポ、特に古くから応援しているサポから大きく反響があった。それに対するアンサーとして投稿されたものだ。

 北電は太平洋戦争後に日本政府によって再編された9つの電力会社の一つであり、北海道最大の電力会社だ。今や知らない人も多いだろうが、古くからのコンササポにとって、コンサと北電の間には何かしらがあり隙間風がふいていることは「公然の秘密」だった。僕もコンササポの父親や年長者からそれとなく聞いたことがある。そういう人からすれば、今回のXでの反応は当然の驚きであり、感慨深いものである。

 だが注目すべきはコンササポの反応じゃない。北電Xの「昔の経緯は諸先輩たちから聞いていて、それなりに理解してますが、正直『今は昔』です」という言葉だ。北電側が公式の広報ツールで過去にコンサと「何かしらの問題」があったことを認めている。僕はここに「公然の秘密」が「公然の事実」に変わった瞬間を見た。

 コンサと北電の間に何があったかは、クラブ誕生までさかのぼる必要がある。もっともここで僕は知られざる真実や恐るべき陰謀を解き明かすつもりはない。そういうことはしかるべき証言者や記者、オフィシャルライターががんばることだろう。

 わざわざ僕が北電の話をしたのは、北電のちょっとした投稿に対して「感慨深い」や「雪解け」と思ってしまうコンササポの反応にこそ「なぜコンサは今の道を歩んでいるのか」を考える切り口があると思ったからだ。

 もしかするとクラブが誕生する過程で、既にコンサは北海道においてどういう位置づけの存在であるか規定されてしまったのではないだろうか。

 なおコンサが誕生した1996年時点で僕は3歳だ。記憶はない。当然それ以前の歴史も記憶がないか、生まれていないかだ。だが、この『ぼくのコンサ史』は正確な証言を収集して歴史を組み上げるのではなく、今手元にある資料と僕の記憶を元に考え、自分なりの歴史解釈を組み立てることに重きを置いている。それは今後の連載も同様である。

2.1935年と1996年、2つのはじまり

 先ほどコンサの誕生は1996年と書いた。しかしWikipediaによれば創設は1935年とあるし、クラブ公式サイトの年表も1935年から始まっている。コンサドーレには、1935年と1996年の2つの始まりがあるのだ。

 まず1996年は「コンサドーレ」という名前が誕生し、クラブの運営会社(現・株式会社コンサドーレ)が設立され、「コンサドーレ札幌」としてチームが始動した年だ。だが、コンサはまったくゼロから札幌に作られたわけではない。母体となる前身があったのだ。

 前身となったのは、神奈川県川崎市にあった東芝サッカー部である。創部が1935年。このチームが北海道札幌市に移転して誕生したのがコンサだ。そのためコンサの歴史をひもとくと1935年と1996年の2つがはじまりとして扱われることになる。

 「地域密着」を看板が当たり前になった現在の感覚では、神奈川県から北海道にチームを移転して「おらが町のチーム」とするのは違和感を覚えるかもしれない。だが当時はJリーグを目指したいチーム、またはチームを手放したい実業団と、Jクラブを作りたい地域が誘致活動を通じてマッチングすることは、Jリーグを目指す手段のひとつだった。

 たとえばアビスパ福岡は、静岡県藤枝市の中央防犯FC藤枝ブルックス(元は中央防犯サッカー部)が1995年に移転したクラブ(当時は福岡ブルックス)である。サガン鳥栖は、静岡県浜松市のPJMフューチャーズが1994年に鳥栖フューチャーズとして移転したクラブだ。コンサの成り立ちもこれらの流れと似ている。

 ちなみに東芝サッカー部は、川崎フロンターレのホームスタジアムである等々力陸上競技場を使用していた。フロンターレの前身は同じく川崎市にあった富士通サッカー部だ。東芝と富士通の対戦は今風にいえば「ダービー」ともいえるかもしれない。実際に東芝として最後の年になった1995年のJFLの開幕戦では、等々力で激突している。

 コンサとフロンターレは、1997年の伝説の4-3、2018年の田中碧選手に自信をつけさせたことでおなじみの歴史的大敗、2019年のルヴァンカップ決勝など印象に残る試合を何度も生み出している。コンササポの中に自分たちが川崎にルーツを持つという意識をある人はほとんどいないだろう。僕もそうだ。しかしコンサとフロンターレの戦いが「川崎に縁あるチーム同士の一戦」という見方ができることも知っておいてほしい。

 東芝と富士通の縁でいえば2024年、等々力に29年ぶりに帰還した人物がいることをご存じだろうか。フロンターレの村田達哉コーチだ。現役時代コンサでも活躍した村田は、東芝サッカー部最後の年である1995年に入団してプレーしている。ある意味、コンサとフロンターレの過去をつなぐ存在ともいえるだろう。

3.「今は昔」の「昔」とは

 1993年のJリーグ開幕とブームによって何が生まれたか。それは「我が町にもクラブを」という機運である。北海道も例外ではなかった。1994年には札幌青年会議所が署名活動を行い31万筆を集めている。

 また1993年、札幌の有志グループは実際にJリーグを目指すクラブを北海道に作るべく動き出した。まず彼らが足を運んだのが実は北電なのだ。コンサと因縁があるからといって、北電がサッカーに関心がなかったわけではない。むしろ逆である。コンサ誕生よりずっと前から北海道サッカーに力を注いできたのが北電だ。

 北電サッカー部は北海道サッカーを代表する名門実業団チームだった。それが2003年にクラブチーム化したのがノルブリッツ北海道FCである。北海道十勝スカイアースやBTOP北海道の台頭に押されてるが、今もなお北海道サッカーリーグの名門であることは間違いない。ノルブリッツにはクラブフィールズという組織が別にあり、U-15、U-12、リンダ(女子チーム)、スクールを運営している。なでしこジャパンのキャプテンである熊谷紗希(現・ASローマ)は、クラブフィールズ出身である。

 そのため有志グループが真っ先に北電を訪ねたのは当然のことだった。北海道サッカーといえば北電だし、Jリーグに最も近い実力を持つ北海道のサッカーチームも北電だった。北海道のJクラブの母体にするならここしかない。

 しかし北電は断る。そもそもクラブ経営が成り立つのか、有志たちへの信頼度、アマチュアリズムや公共性へのこだわり、Jリーグの将来への疑念などそれっぽい理由は浮かぶが真相は当事者じゃないと分からない。

『公共事業を生業とする会社として サッカー部のプロ化は考えられない』

「財界さっぽろ」編集部・編著『赤黒戦士たちの素顔』p52

 補足すると北電と同じ電力会社で、サッカー部のプロ化をほぼ同時期に行ったところがある。ベガルタ仙台の母体となった東北電力サッカー部だ。ただしこちらは初めから東北電力が本命だったわけではない。本命は某企業のサッカー部で、宮城県が東北電力を通して好感触で話が進んでいた。ところが同じく福島県が東京電力を通してアプローチをかけており、某企業は仁義を切ってどちらも断ったのだった。その後、ソニーやキリンにもアプローチするも難しく、地元企業から作ろうとなり今に至る。

 東北2県からのアプローチを断った某企業だが、その後しばらくしてから声をかけてきた地域と交渉が成立し移転して「コンサドーレ札幌」と名前を変える。そう、某企業とは東芝のことだ。東芝に断られ地元の電力会社を母体にしたベガルタと、地元の電力会社に断られ東芝を母体にしたコンサ。これまた奇縁である。

 北電に断られた有志グループは、北海道リーグの常連である札幌蹴球団を母体にしようと考える。1994年はJFL昇格を目指そうとチーム強化をしたそうだが昇格は実現できなかった。

 そんな折、北海道と東芝サッカー部に接点が生まれる。Jリーグ関係者が有志グループに高橋武夫監督を紹介したのだ。これを機に有志グループは札幌SJクラブという市民組織を立ち上げて行政、市民、企業が一体となった東芝サッカー部の誘致活動を行おうと画策する。そしてその会長に就任したのが「白い恋人」、石屋製菓の石水勲社長(当時)であった。コンサと白い恋人の甘くもしょっぱい蜜月の関係はここから始まったのだ。

 さてここで北電に再び登場してもらう。プロ化を断ろうが北電が北海道サッカーに大きな貢献をしているのは疑いようもない事実だし、サッカー協会の幹部にも北電の人間が派遣されていた。協会自体、1993年2月の段階でチーム誘致の特別委員会を設置している。北海道にJクラブを作る動きの一翼は担っていたわけだ。北電の公式Xがポストした「今は昔」。では果たして「昔」に何があったのか。このような証言が残っている。

 当時を知る、複数の関係者の話を総合するとこうだ。
「95年の正月に道内テレビ局で『新春激論生トーク・北海道にJリーグを!』という深夜番組が放送された。当時は推進組織の設立が進まない中で『北海道はやる気があるのか』などがテーマだった。その番組の終盤、パネリストとして出席したSJクラブのあるメンバーが、道サッカー協会幹部の煮え切らない発言に業を煮やし『もう何も手伝ってくれなくていいから、邪魔だけはしてくれるな』と言い放った。あの一言で、水面下でしか知られていなかった、同協会の消極的な姿勢が道民に露になった」
「協会幹部は赤っ恥をかかされ、同協会会長の樫原泰明さんや、北電から来ていた協会幹部らが激怒した。あれ以来、表に出ない部分で協会と北電は非協力的になった。樫原さんは99年3月に亡くなったが、協会や北電に『コンサドーレには協力するな』という“遺言”を残したという噂もまことしやかに伝わった」

「財界さっぽろ」編集部・編著『王者!コンサドーレ 赤黒戦士たちの素顔』p54

本当に実話かこれ、と思わんばかりのエピソードだ。深夜番組での口論も樫原会長の遺言も、ドラマのワンシーンかよと。

 また『財界さっぽろ』1996年1月号には、次のような暴露話が載っている。

「北電会長で道経済連合会の戸田一夫会長や道サッカー協会の樫原泰明会長が『どうせ東芝は来ない』と、いい加減な対応をした」
「移転が決まると、戸田会長が東芝の関係者を呼んで『受け皿ができていないから来てもらっても責任は持てない』と話した」

「財界さっぽろ」編集部・編著『王者!コンサドーレ 赤黒戦士たちの素顔』p53

 これらの話がすべて本当かは分からない。うがった見方をすれば紹介したエピソードはみな被害者(コンサ)側の証言だ。だからこそ、最初に紹介した北電の公式Xの投稿が特筆すべきものなのだ。北電側が「コンサと過去になにかあったこと」を「昔の経緯」や「今は昔」として認めている。おそらくその「昔」とやらにコンサ誕生時のあれこれが含まれているのは間違いないだろう。

 そして、これらの経緯は内容の濃淡はあれども古くからコンサを応援している人の多くはなんとなく理解している話だ。内部情報に食い込んでいるサポなら表に出せないもっと濃ゆい話を知っており、ドロドロした感情を抱いているかもしれない。だから北電が公式Xでコンサドーレに言及したことが本当に感慨深かったのである。

4.傍流としてのコンサドーレ

 北電は北海道最大の電力会社として地元の大手企業である。北海道を本社や活動拠点にする多くの企業が名を連ねる北海道経済連合会は、1974年設立以来会長に就任しているのは北電出身者だけだ。まさに北電は北海道経済の中心である。そんな企業にコンサはそっぽを向かれた状況から「北海道のサッカークラブ」としてやっていくことになったのだ。

 ただ、北電も単に恥をかかされたからこうなったわけではないだろう。おそらく「北海道でプロスポーツチームの経営はうまくいかない」と踏んでいたのではないだろうか。そもそも前例のないことだ。北海道経済の中心としては自分が大やけどを負うわけにはいかない。加えて、仮に誰かがやってうまくいかなくなってから自分に泣きつかれても困るといった思いがあってもおかしくない。そういうシビアな考えと、「北海道にJリーグを」というキラキラした情熱がこじれにこじれた結果がコンサと北電の関係に至ったのかもしれない。

 コンサ誕生時に中心となって動いた北海道企業の両翼は、製菓業の石屋製菓と百貨店の丸井今井だった。推測するにこのコンビが、北海道に縁があったハドソンやサッポロビールをスポンサーに引っ張る交渉をしたのではないだろうか。

 だが、オール北海道で総力をあげてコンサを作るなら、そうはならかなったはずだ。石屋製菓や丸井今井の立ち位置には当然北電はいただろう。あるいは建設系の伊藤組土建や地崎工業(現・岩田地崎建設)が絡んだ可能性もあったのではないだろうか。伊藤組も地崎工業も建設だけでなく、スキーといったスポーツ活動に力を入れていた。また、伊藤組はテレビ北海道(TVh)、地崎工業は北海道テレビ放送(HTB)やFM NORTH WAVEといった放送局の設立に関わった。スポーツと放送の両方に関わる地元の中心企業にサッカーサイドがアプローチしない理由はないはずだ。あくまで妄想の世界ではあるが。

 ではオール北海道になるべきだったかというと、それは場合によりけりだろう。それで得られなかった支援もあれば、保守的な文化にはならず攻めの姿勢で経営できた側面もあったかもしれない。しかしそれは本流ではなかった。「北海道最初のプロスポーツチーム」という看板を持つ地元の代表でありながら、傍流的な側面を持つ。

 あるときは北海道の中心として振る舞おうとし、本流に近づこうとする。あるときは傍流的な立ち位置を活かしたフットワークの軽い振る舞いに打って出る。この二面性は、誕生時から背負わされたコンサの運命なのかもしれない。

 1995年初めから始まった移転交渉は、当初難航するも1996年1月に東芝サッカー部の札幌への移転が正式発表される。そして3月2日、新しいチーム名が「コンサドーレ札幌」と発表される。かくしてコンサは誕生したのであった。

(写真提供:JUN)

【次回予告】
『1996―東芝と東農大の遺伝子【ぼくのコンサ史・1章】』(仮)

【補足】
・今回の記事を読んで「この事実関係は知っておいた方がいいよ!」という話、証言や資料がありましたら、ぜひ助言していただきたいです。参照して内容を随時改定していきます。
・1996年以前のコンサに関わる写真をお持ちで、ヘッダー画像に使ってもいいよという人がもしいらっしゃればご連絡ください。よろしくお願いいたします。

【おしらせ】
 サッカー専用のXアカウントを「支店」として作りました。サッカー関連の投稿は以後こちらで行います。ご興味ある人はぜひフォローよろしくお願いいたします。
https://x.com/negacle_consa

5.参考資料

◎「財界さっぽろ」編集部・編著『王者!コンサドーレ 赤黒戦士たちの素顔』
 コンサ設立の経緯は、本書を参考にした。ここに書かれていることが真実と断定するのではなく、傍証になり得るというスタンスで本記事は記述したつもりだ。

◎ベガルタ仙台・ボランティア・ネットワーク2003年研修会第7回『ベガルタ仙台の歴史と今後』(宮城県サッカー協会・伊藤孝夫氏)レポート
 ベガルタが東北電力サッカー部を母体とした経緯を書くために参照した。http://www.miyagi-sports.net/vvn/kenshu/report-07.pdf

◎コンサデコンサ
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