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Jクラブと日本史のつながるようでつながらない関係性


1.Jクラブと日本史の関係性

 現在、Jクラブは全国各地に存在する。Jリーグははじまって30年だが各地の歴史は何百年何千年と続いている。

 Jクラブの中にはホームタウンの歴史やその地にゆかりのある人物と自クラブをつなげる試みがなされるところもある。例えば試合のイベントに歴史を絡めたり、サポーターがホームタウンゆかりの歴史人物の弾幕を作って試合で掲示したりといった感じである。サッカーも歴史も好きな僕にとっては非常にうれしい試みだ。自分の好きなものと好きなものがつながる。これに勝る喜びはそうそうない。

 しかし、いくら同じ土地の縁で絡めているとはいえ実際にJクラブとその歴史が交わった事実はない。当然ながらサッカークラブは戦国時代から存在していない。そのため「その絡め方、歴史と照らし合わせたら無理ないか?」とか「歴史の文脈考えたらクラブの色と合ってなくない?大丈夫?」みたいな絡め方もちらほら見られる。ツッコミしろがあるのだ。

 これは決していちゃもんではない。むしろ僕は楽しんでいる。このちょっとしたズレ自体が面白いし、そのズレに気がつくことで地域の歴史をもっと詳しく知るきっかけになるからだ。

2.大分トリニータと釣り野伏

 片野坂知宏監督が大分トリニータを率いていた頃、トリニータの戦術が「釣り野伏」(つりのぶせ)と称され、日本史好きのJサポには大きく話題になった。

 釣り野伏とは、薩摩(鹿児島県)を本拠地にした島津氏が用いていた戦術である。おとり部隊ががわざと退却したフリをして相手を誘い込み、誘った先に隠しておいた伏兵部隊と反転したおとり部隊たちで相手を包囲して殲滅する。これは自分たちが少数のときに大人数の相手を倒すときに使われ、実際に数々の敵を壊滅させていった。この戦法を明と朝鮮の連合軍で使った島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と大陸に名前をとどろかしたとされる。

 当時のトリニータは、あえてGKとDFでボールを回して相手を引き込んだ上でのカウンターを効果的に機能させていた。その戦術が「釣り野伏」になぞらえたのだろう。おそらくは片野坂監督が鹿児島県出身だったことに由来するのではと僕は考えている。いや、そう信じている。鹿児島と大分は同じ九州だから絡めたという話ならば、さすがに歴史の文脈に沿わなさすぎるネーミングだからだ。

 大分という土地は釣り野伏する側ではない。むしろ釣り野伏でコテンパンにされた側だからだ。戦国時代に大分県近辺を支配していたのが大友氏だ。戦国時代の九州は大友氏、龍造寺氏、島津氏が三大勢力として大きく領地を広げていた。そのうちの大友氏と島津氏が激突した大きな合戦が1578年の耳川の戦いだ。この戦いで猛威をふるったのが島津氏の釣り野伏による包囲戦術だ。これをくらった大友氏は多くの武将や兵を失い大打撃をくらった。この敗北が大友氏の凋落が早まったきっかけの一つとも言われている。

 この歴史をふまえると、釣り野伏で壊滅的打撃をくらった大分の人々が何百年の時を経て、釣り野伏によって自軍(大分トリニータ)の勝利をもぎ取っているともいえる。

 補足すると、大友氏の中にも釣り野伏に似た戦術を使っていた武将一族がいる。それが立花道雪の立花氏であり、その道雪に跡取り養子として宗茂を送った高橋氏である。どちらも大友氏が誇る戦上手の一族といえる。マンガ『NARUTO』の主要人物・はたけカカシが使う忍術「雷切」は、立花道雪が自らの日本刀で雷を切ったという逸話からその刀が「雷切」と呼ばれるようになったという逸話から由来していると思われる。

 ちなみに大友氏は日本ではじめて大砲を導入したとされている。その大砲は「国崩し」(くにくずし)と名付けられた。トリニータが試合終了間際に相手陣内にロングボールを放り込むパワープレーを用いるときには是非とも「国崩し」と呼びたいところだ。

3.東京ヴェルディ1969と土方歳三

 かつて僕が味の素スタジアムを訪れたときである。東京ヴェルディの応援席を見ると、端正な顔立ちをした一人の男の肖像がモチーフの弾幕が掲げられていた。その男の名は土方歳三という。幕末に活躍した新撰組の副長であり、「鬼の副長」という通称で知られている。明治政府に最後まであらがい北海道の箱館(函館)でその命を散らしたラストサムライだ。

 司馬遼太郎の『燃えよ剣』をはじめ様々な創作物で題材になっていることから、その知名度は非常に高い。ちなみに僕のイメージは大河ドラマ『新撰組!』で山本耕史が演じた土方だ。今だと野田サトルの『ゴールデンカムイ』の印象が強い方もいるかもしれない。

 そんな土方はヴェルディのホームタウンである日野市の出身である。あるときは副長、あるときは部隊の指揮官として巧みなリーダーシップでチームを率いた。そして最後の最後まで戦いを諦めなかった男。チーム一丸となって勝ちを諦めない心意気を示すにはぴったりの人物だ。

 ところが土方は実をいえばあんまり戦いで勝ってない。というか結構負けている。『燃えよ剣』ではめちゃくちゃ優秀な指揮官と描写され、同じく部隊を率いていた大鳥圭介は反対にとことん無能扱いされているが、実際の戦績はどっこいどっこいといったところだ。

 僕が思う土方歳三のすごみは圧倒的な「統率力」だ。しかもその能力は新撰組副長時代ではなく、盟友近藤勇を失ってもなお戊辰戦争を戦い続けた時期に大化けした。

 ある部下はこう書き残している。「年の長するに従い温和にして人の帰する事赤子の母を慕うが如し」と。戊辰戦争の土方は負け戦ばかりだ。それでも部下からの信頼が失われず、むしろみんな彼をいっそう慕い続けた。どんな困難な状況でもチームとして戦い続けた「チーム土方」のあり方を見れば、サポーターが旗印に掲げるにはこれほどふさわしい男はいないのかもしれない。

4.ファジアーノ岡山と宇喜多直家

 僕が個人的に好きな弾幕がある。それがファジアーノ岡山の応援席に掲げられた宇喜多氏の家紋の弾幕だ。シンプルに家紋だけ。江戸時代の200年以上にわたって岡山を治めていたのは池田氏だ。それ以前に支配していたひとつが宇喜多氏なのだが、その支配期間はわずか30年ほどである。それなのに池田ではなく宇喜多。無性にグッとくる。

 宇喜多氏を最も象徴する男こそ、宇喜多直家である。直家は、かつて「戦国の梟雄」(きょうゆう)の代表格とされていた。今でもそのイメージを持つ人は少なくないだろう。暗殺や毒殺など敵の排除には手段を選ばない。血縁者や自分の婿であっても敵とみなせば容赦しない。あらゆる謀略を駆使して流浪の前半生からのし上がり、ついには主君を追放し自らが支配者となった。宇喜多の名前は彼の働きなくして歴史に大きく残ることはなかった。実情はまたちょっと違うらしいが、僕もそこまで詳しく文献をあさってないので割愛させていただく。

 僕が宇喜多弾幕を見かけた時期、ファジアーノはどんなクラブだっただろうか。よくみていたのは影山雅永監督や長澤徹監督の時代だった。なんとなく「ひたむきさ」を象徴させるサッカーを標榜していたことが記憶にある。また、地元の人たちに与える印象を考慮して選手が髪染めることは一切なかった。そしてアクチュアルプレーイングタイムを増やすために、自らボールを外にだして試合を中断することを極力避けるといった試みもしていた。

 全然「宇喜多」感がない。直家率いる宇喜多氏が真っ黒だとすれば、ファジアーノは真っ白。この対極なコントラストが僕には面白く感じられた。

 現在も岡山の応援席に宇喜多弾幕はあるのだろうか。僕は今率いている木山隆之監督がファジアーノ史上一番「宇喜多」っぽい監督だなと思っている。別に謀略大好きだと思っているわけではない。酸いも甘いも嚙み分け、それでいて更にまた上へのし上がろうとする姿がなんとなく宇喜多直家と重なる。ちなみに直家が主君を追放して戦国大名に成り上がったのは、今の木山監督と同じくらいの年齢だ。

 ファジアーノは「宇喜多」っぽくないという話をここまで書いた。でも実は直家の業績をひも解くとファジアーノを感じさせる要素がある。直家が岡山城を支配下に置くと、真っ先に城下町を整備した。そして元々商業が盛んな地域から商人を呼び寄せて経済振興を積極的に行った。岡山が経済的な拠点になったのは直家の時代からとも言われている。直家は流浪の日々を送った前半生に商人の世話になっていたらしい。もしかするとただ世話になるだけではなく、日々生きていくために商人の手伝いもしていたかもしれない。

 つまり宇喜多直家は商人の素養をもった経済センスのある武士なのである。思えばファジアーノを今のような立場まで持ち上げた中心人物も経済センスのある人物だった。現オーナーの木村正明さんである。彼はゴールドマンサックスでお金と経済がなんたるかを身体にしみつくまで働いた後、ファジアーノの代表取締役になってクラブを発展させた。

 今も昔も岡山を想像を超えた世界へと発展させるのは「経済を知る人間」なのかもしれない。

5.こじつけがすべてを面白くする

 他にも興味のわくJクラブと日本史の関わりはいくつかある。

 名古屋グランパスは今季、東京の国立競技場で行った公式戦「鯱の大祭典」を行った。ちょうど優勝争いに食い込んでいる中の開催であり、徳川家康や徳川吉宗を演じた経験のある松平健さん(愛知県出身)がゲストとして馬に乗って登場する光景も見られた。まるで徳川家康の江戸への転封とその後の天下統一を連想させるではないか。

 僕が応援している北海道コンサドーレ札幌は、過去にユニフォームのデザインにアイヌ文様をほどこしていた。「アイヌ民族」と「開拓者」というある種相対する存在によって形作られた土地が北海道である。そのため安易な歴史の取り扱いはデリケートな側面がある。しかしそれもマンガ『ゴールデンカムイ』のヒットでより、カジュアルに扱う土壌が生まれたような気もする。

 ここまで僕はクラブと日本史が「つながっている」という話と、「さすが無理矢理つなげていないか」という話をした。しかしこの手の話はつながっていようがつながっていまいが、ほとんどが「こじつけ」にすぎない。

 最初にもいったが歴史上の人物や事例とクラブには「土地が同じ」以外の関連は基本ない。なぜなら多くは時間軸が被ってないからだ。よく歴史上の何かデザインに用いられるエンブレムも基本は「土地が同じ」という縁だけでモチーフにしているにすぎない。例えば鹿児島ユナイテッドのオーナーが島津氏の当主だったとかならまた話は変わるかもしれないが。

 でも僕はこの「こじつけ」が面白いと思っている。クラブとその土地の歴史に共通点を見つけるということは、それぞれの要素を抽象化して結びつける作業だ。この抽象化と具体化を往復するプロセスこそ「考える」ことの面白さである。偽史や陰謀論までいきつくのは論外だが、サッカーも歴史も楽しむための「こじつけ」は楽しい楽しい最高の遊びである。

 今回は3つのJクラブと日本史のつながりの面白さを書いた。他にも調べると色々なクラブがご当地の歴史と絡めているものがあるはずだ。機会があればまた興味深いものを取り上げてみたい。

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