「戦争体験」から戦後を学ぶ―立石泰則『戦争体験と経営者』
1.戦争で見る堤清二と中内功の違い
太平洋戦争後、名経営者として名をはせた人物たちの「戦争体験」に着目した本だ。
この切り口に僕はとても興味をひかれた。昭和を生き抜いた経営者や政治家などの証言を拾っていくと必ず「戦争体験」が色んな意味で強い軸になっていると分かる。
そしてその体験がどんな人にとっても立ち返る原点であり土台だ。だから相反する考えを持つ人々同士でも議論ができるし、ギリギリのところで折り合いがつく。「もうあんな体験を日本にさせてたまるか」という思いだけは少なくとも共有しているからだ。
「戦争体験」のベースがどのように政治家などの思考や合意形成に影響したかは、もっともっと取り上げられていい話である。
しかし、「戦争体験」といっても人によってまったく別物であると本書は教えてくれる。著者がうまいのはそれを小売業で頂点を極めた2人の経営者で対比していることである。セゾングループの堤清二とダイエーの中内功だ。
まず世代によって戦争体験の内容はかなり異なる。同じ出征でも社会人になってからと、学徒出陣では体験は同じでも出征までの感覚が違っていたりする。どの戦場に行ったかでも変わるし、戦後シベリアに抑留されたとなってはすぐ日本に帰ってきた人とはまったく別経験である。
出征する年齢でなかった世代は空襲や受けた教育の思い出が強く残っている。世代問わず性別や居住地によっても体験内容は変わってくる。
堤清二は、西武グループを築き上げた康次郎の子として生まれた。複雑かつ壮絶な家庭環境で成長し父への反発も強かった。ただし戦後、当時不治の病とされていた肺結核で2年間療養し手厚い治療を受けれたのは康次郎の財力のおかげでもあった。
彼が語る戦争体験は空襲の話がメインになる「戦争のために理系にいった」という話が興味深い。当時の学生は徴兵を回避するために興味がなくても理系に進学して勉強していたそうだ。そして終戦後、一斉に文転するなんて事象もあった。堤もその一人である。
中内功は、大阪の小さな薬局の長男として生まれて戦争当時は商社で働いていた。徴兵後はフィリピンのルソン島で強烈な飢餓経験をする。戦友たちが飢餓の果てに弱った味方を食べるのではという「人肉食い」の噂が流れて夜も眠れぬ日も過ごす中で戦った。その経験から中内は極度の人間不信になったとも言われている。
戦後、堤はセゾン文化で一世を風靡し、中内は流通革命を起こした。しかし彼らの戦争体験はまったく違う。その違いが同じ小売でも「文化」と「流通」に軸が分かれていったとするのは短絡的だろうか。
中内は「ご飯が食べれない」ことが人間を人間たらしめなくなる地獄を経験した。そのためか阪神淡路大震災のときには政府よりも早く対策本部を作り迅速に被災地の支援を行った。そんな彼は次のように語っている。
彼が流通に命をかけた理由がわかるのではないだろうか。
2.「死者への債務」を背負った「明治維新」と「戦後の昭和」
ワコール創業者の塚本幸一は、インパール作戦に従軍している。作戦は大失敗に終わり逃亡する塚本たちの目の前には湿地帯を渡る橋があった。しかしそれは橋ではない。力尽きて亡くなった戦友たちの遺体だった。彼は戦友の屍を踏みつけながら橋代わりにして何度も逃げたのだ。
彼にはワコールの経営と発展を支えた学校の同級生が2人いる。中村伊一と川口都雄だ。同じ学校ながら学生時代はまったく縁がなかった3人だか、それぞれ異なる戦争体験で人間不信におちいり日本に帰ってくる。そして縁あって塚本のワコールを終生支え続ける。
まったく親しくもなかった同級生3人組が戦争体験を得て戦後再び出会って事業を共に行う。ある意味、戦争が結びつけた3人かもしれない。
戦地を生き延び日本に帰ってきた人々が共通して考えることがある。「なぜ自分が生き延びたのだろうか」という思いだ。これは死んだ戦友に対する「後ろめたさ」も含んでいる。その上で彼らは己の生きる道を探して戦後を生き抜いた。
この話を読んで僕は同様の感覚を持っている日本人たちに思い当たった。明治幕末の動乱と明治維新を経験した人々である。「日本陸軍のドン」として悪名高い山県有朋は友人や恩人、同志たちを幕末、明治維新、そして年老いてから戦争や暗殺といった非業の死で失っている。
彼が今でいう「老害」のような扱いを若い世代にされながらも晩年まで政治力を発揮しようとしたのは「死者への債務」なのではと今になって思う。彼らが見たかった日本や守りたかった日本を代わりに支え続ける責任感が山県を駆り立てた。問題はそのやり方が陰湿すぎたことだが。
昭和(戦後)の政治家たちを調べてみると、右派だろうが左派だろうが戦争体験は根底に存在していた。どんなに対立していても「越えちゃいけない線」は暗黙に共有していた感覚を覚える。
今、日本の国会議員には戦争体験者がほぼいなくなった。政治家に限らず思想の違う人々が暗黙に共有可能な「立ち返る場所」は今日本に存在しているのか。共有できるものがなければ、考えの違う人間はただ単に「話の通じない人間」として対話を互いに拒絶し合う。
明治維新といい戦争体験といい多くの血が流れない限り日本人は、誰もに共通する対話のベースは作れないのだろうか。
3.戦争とは、人間が人間をやめる世界である
「戦争はやめましょう」
誰もが聞いたことあるし、ほとんどの人間はそう思っているだろう。ではなぜ戦争がいけないのだろうか。「多くの人が死んで不幸になるから」など様々な理由が出てくるはずだ。
僕が日本人の戦争体験を読んで強く思ったのは「戦争はあらゆる人間の最も醜くて嫌な部分をあらわにするもの」ということだ。特に僕ら日本人はそれを強く認識したほうがいい。
よく「日本人は団結力がある。これは欧米人にも負けない」と自称することがある。この強みを団体スポーツで生かそうという意見も日本では根強い。
ところがシベリア抑留の際は、次のようなエピソードや証言がある。
戦争では日本人が普段誇る「団結力」なるものがいかに役に立たないかを象徴する話だ。ワコールの中村伊一もシベリアで人間の本性を見続けて人間不信におちいったと語っていた。日本人の「団結力」とは「人間が人間として生きること」を完全に担保された状態で機能し得るものではないだろうか。
最後に僕が本書を読んで最も痛烈な印象が残った戦争体験を紹介して、この書評の締めとしたい。
ある商社マンのOBは、十代後半に中国の満州から日本に引き揚げてきた。彼は関東軍や政府関係者に置き去りにされた人々の一人だった。引き揚げで最も警戒するのは現地住民の襲撃だ。住民に見つからないように夜静かにグループで移動する。その際、一番の懸念だったのが赤ちゃんや幼児の泣き声である。音を立てれば見つかってしまうからだ。
商社OBのグループにも赤ちゃん連れの夫婦がいた。移動が進むにつれその泣き声に対して言わずとも怒りがつのるグループの人々。なにせ自分の命がかかっているからだ。大人たちの怒りの空気は若い彼にも伝わってくるほどだった。
そんなある夜、その赤ちゃんの父親が行動を起こす。
この話を著者に伝えた後、商社OBはこう告げた。
人間が人間でなくなる世界。それが戦争なのである。
4.参考資料
筒井清忠・編『昭和史講義【戦後篇】(上)』
香取俊介『昭和情報秘史』
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