距離
昨日知人とライン上でコミュニケーションに関する議論になり、そのやりとりの末、『どれだけ親しかろうが、どれだけ心を許していようが、最終的に他者は他者でしかない』という自分の基本信条が浮き彫りになった気がした。
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考えてみれば小学生の頃に両親が離婚し、母が働きに出るようになり、弟も当時は保育園通いだったため一人で家にいる時間が増え、その頃から家族という共同体に属している意識が希薄だった。
家では主にひとりで物思いに耽ったり、絵を描いたり本を読んだりして過ごした。
いわゆるゴールデンタイムに、ひとり黙々と作り置きの晩御飯を食べた。
それらをあまり寂しいと感じたことはなかったし、好きなことを好きな時に行える自由を子供ながらに心地いいとすら感じていた。
その頃から自分にとって、家族は共同体というより母、自分、弟、の個人としての集まりという認識に少しずつ変わっていった。
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中国に住む父に、数年スパンではあるものの時折海を越えて会いに行く。
久しぶりに会うと、まだ家族でいたい父と、もうとっくに家族という認識も薄れ個人として関わりたいと考える自分との間で明確に違和感が生じる。一緒にいるのに、なんとなく心理的な距離を置いている自分のスタンスに気づく。
父と子の関係性でもって自分のパーソナルスペースに立ち入られることに強い抵抗を感じる。
血を分けた家族なのに、おかしいことなのだろうか。
ただひとつわかっているのは、『家族』という絆を絶対的なものだと信じていた、両親が離婚する前の幼かったあの頃の気持ちには、おそらくもう戻れないということ。
でもそれを別に悲しいことだとは思わない。
父も確かに「他者」ではあるが、自分のもっとも大事な人のなかのひとりであることに変わりはないのだから。
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他者はどこまでいっても他者だが、他者同士であることを認め、その距離感をお互いに理解し尊重した上で、その上で一緒にいることを選択できる自由こそが、この時代におけるもっとも心地よいコミュニケーションなのでは、と自分は思う。
これはきっと家族や恋人、友人や会社の同僚など、名前のついた関係性においても然りで、共同体の一部として盲信的に隣人に信頼や同調を求めるのではなく、例え同じ苗字や会社の名前を背負っていたとしても、それぞれに異なる価値観や適した距離感があることを知り、ひとりひとり丁寧に付き合っていくべきなのだ。
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特にオチはありませんが今度ライブがあるので遊びに来てください。
🪩Live info🪩
『wan!9』
at.下北沢THREE
🗓2023.11.17 FRI
⏰OPEN/START 18:30/19:00
🎫ADV ¥2.800+1drink
🎙LIVE
DinoJr. (Solo Set)
luvis
monomouth
(O.A)luv
(DJ)片山翔太
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