見出し画像

珈琲と私、あるいはその残像

珈琲と読書が好きだ。
両方を味わえる喫茶店やカフェが好きだ。

だから、今回の出会いは偶然のように見えて必然だったのかも知れない。

あるエッセイ集を読んでいた。
固有名詞は出さないが、珈琲をテーマにした特集の短編集である。
そのひとつに、強く印象に残る物語があった。
エッセイというのを間に受ければ、おそらく書かれている事は事実だ。
それから今私が書いている内容も、一連の巡り合わせに敬意を表し、ノンフィクションを自称していきたいと思う。

神保町に50周年を迎えんとする老舗喫茶店があるという。
毎朝7時から常連客が珈琲を飲みにくるので、マスターは一年中朝7時にお店を開けているそうだ。
これだけで、愛されてるお店だと感じた。
神保町は本好きが多く集まる街で、長く続く喫茶店がとても多い。
それなのに、学生受けのよい小洒落たカフェも乱立している。
寛ぎを創出する空間とは裏腹に、生き馬の目を射抜くような珈琲戦争が一年中勃発しているような街である。
そんな戦場で50年近く現役を続けるというのは、その苦労や挑戦、維持活動の長さを想像するだけで永遠を感じてしまう。

そのエッセイに感化され、その喫茶店に行ってみたいと調べてみた。
すると、とあるサイトに載っていた写真に見覚えがあった。


ーー先週、私は、ここに行った……?

「2019年閉店」
その画像にはそのような文字が添えられていた。
エッセイが発刊されたのは2017年。
当時48年目を迎えていた某喫茶店は、ちょうど50年を迎える年に、惜しまれながら閉店したようである。
閉店から4年後にこのエッセイは増版され、私の手元にやってきて今に至る、というわけだ。

ではなぜ私が、その喫茶店を正面から撮影した過去の写真に見覚えがあったかというと、まさに一週間前に神保町で入ったお茶屋さんの立地と酷似していたのだ。
そうだ、跡地に新しいお茶専門店がオープンしたに違いない。
常連客も多少は新しいお店に流れ、新しい居場所として馴染んだのかもしれない。
珈琲からお茶へ、時代と共にお口の嗜好に多様性が認められてもなんら不思議ではない。
事実、私が入ったあとにすぐ店内は満席になり、お茶好きの常連客がスタッフさんと談笑するような、地域密着を感じさせるお店だった。
きっと新しいお店も受け入れられ、愛されてるに違いない。

もう永遠に見ることのできない、大先輩の喫茶店に思いを馳せながら私はこの偶然に感動を覚えたのだった。

たまたま手に取った本に、たまたま載っていた喫茶店の物語。
普段は珈琲党なのに、たまたまお茶を飲んだ翌週に私はその本を手に取り、何の気なしに店名検索をした。

たったそれだけの点を繋いだ線が、4年も前に長い長い旅を終えた喫茶店の残像を私の中に蘇らせ、一度だけ味わった真新しいお茶の記憶に光を再び灯した。
これを引き寄せと言わず、何と言おう。

私は本好きだから、エッセイを読む確率は読まない人より高いだろう。
私は珈琲が好きだから、その本を選ぶ確率はそれ以外の人より高いだろう。
私は神保町が好きだから、神保町で喫茶店に入る確率は本に興味がなく珈琲好きではない人よりは、格段に高いだろう。
これを引き寄せと言わず、なんと言おう。

そんな現実にあった不思議なちょっといい話。
誰かにしたくて堪らなかった。
また行こう。あのお店。


Google mapに打ち込んで、余韻に浸る為に地図を見た。
そこで気がつく、驚愕の事実。

両者は全然違う住所だった。

え? ただの写真の見間違い? 
ただの妄想で、ここまで感動してしまってたの私。
あのお茶屋さん、喫茶店の魂、全然無関係だったの?

震える手を押さえながら、昨日の記憶が蘇る。
もう話してしまったよ、私。
会社の新年会で。
ドヤ顔で「ちょっといい話」枠で恍惚としながら話してしまったよ、全部。
あれが夢だったらなぁ……

まぁ、いっか。
どこまでが事実で、どこからが創作か、曖昧なくらいがちょうどいいよね。

これが、珈琲と私のエッセイ。

最後まで読んでくださった貴方は、珈琲好き?
それとも本好き?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?