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いつだって私たちは『最高』なんだ

18歳の頃、同級生が突如として亡くなった。

多臓器不全だった。

昨日まで、彼の好きな洋楽のこと、課題の愚痴、明日の予定などを話し合っていたのに、朝登校したら、担任から「皆様に悲しいお知らせがあります。佐藤くん(仮名)が昨晩亡くなりました。」と伝えられた。

皆、一様に固まり、その後、泣く人、黙って教室を後にする人、困惑の表情を浮かべる人、様々な感情が狭い教室の中で行き場をもとめて彷徨っていた。

僕は『混乱した人』だった。

何が起こったのか、そして起こったことを受け止めきれず、「だって昨日同じ教室にいたし、話もしたし…」なのに、亡くなっただなんて、釈然としないじゃないか。

でも、圧倒的な事実として、彼は亡くなったのだ。”食後に弟と遊んでいたら急に倒れて、治療する間もなく、亡くなった”とのことだった。

悲しさ、というよりは、儚さ。人の命の儚さを僕は当時強く感じた。

いつ死ぬかわからない。だから今日を精一杯生きよう。なんて使い古された言葉を幾度と耳にしたが、本当に彼は死んだのだ。予定もなく、なんの言葉もなく。

僕ら人間は慣れる。環境に適応する。驚きをもって接していた風景や物事も、数日経過すればそれは「当たり前のモノ」となるのだ。

そうすることで、ストレスを低減し、適応的に人間は生存してきた。元々人間は保守的で変化に弱い生き物だから。

だからこそ、「当たり前のモノ」に意識をむけ、それらに「ありがとう」や「好きだよ」という想いを新たに胸に刻み込むことが大切だと思う。

今ですら、今ある仕事、家庭に慣れ、相手に対しての「ありがとう」や「好きだよ」がちゃんと渡せているのか甚だ疑問だ。

「慣れ」にあぐらし、大切なものを見過ごし、気がつけば失う。それだけは避けたい。

人は刻々と命の鼓動を続けている。いつ止まるかもわからない鼓動を。それを自覚しながら、この命を大切な人のために生かし続けたい。

生きていることは、奇跡だ。だから、あなたが生きていることは奇跡だ。病気で休んでも、仕事をやめても、ニートになっても、生きているだけで最高なんだ。

だから、勝手に命を閉じることなく、今日を生きよう。そうしよう。

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