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【ショート小説】テキサス・キラー・チェーンソー5号

常闇は藍に気持ちばかり翠を混ぜた様な色をしていた。夜の風が身体を通り抜ける度に、魂の熱が大きく燃え上がり、しんとした外気から輪郭を浮き上がらせている。ガソリンはそれでも、揺れているだけであった。ハンドルを握る男の腰あたりには、大ぶりな銀のチェーンが風に揺られて、バチバチと太ももを打ち鳴らしている。鋼鉄の愛馬は、ブゥオンと嘶くと前脚を僅かに上げて速度を上げた。目的地は、未だ彼方であった。
やがて暗闇は山道に差し掛かったのがわかった。右手に走る樹木は、次第に太く複雑に絡み合って、手招きをするようにゆっくりと揺れていた。テールランプが所々、充血したまま山道の闇を切り裂くと、山は悲鳴をあげていっそう強い風を吹かせた。

「次の日曜にキャンプに行こう」太い黒縁眼鏡から覗き込む様に男に顔を近づける女は、咥えたストローを離すとそう言った。長い髪は、心なしか、櫛で解かれ普段より幾分か風に靡いている様に見えた。金曜日昼過ぎのテラスは、燦々と日光が差し込み、名も知らぬ植物は大きな葉を広げ、しっかりと浴びる様に少しだけその切先を垂らしていた。男は古い映画の写真を思い出していた。木製のデッキは男の硬いブーツを滑らかに支えている。「お酒でも飲んで、ゆっくりしたくない?マシュマロなんか焼いちゃったりして」女はそう言うと、再びストローを口に運び、アイスティーを一息吸い上げる。「あと、日の出ね。これは絶対に見たい」
水位を下げられた氷が剥き出しになりカランとグラスの中で息の根を止めていた。男は時折吹く風に髪を靡かせながら、頭の中で好きなバンドの曲をかけ始めた。脳内の景色は、ラズベリーブルーの草原へ変化し、そこには女しかいなかった。

鉄騎が山に沿って、大振りなカーブを曲がると
ヘッドライトもまた、内縁に引き寄せられる様に、僅かに角度を変える。風の音はやがて聞こえなくなり、バイクの心臓音だけが男を包んだ。エンジンの震えと切り裂いた風が肌から浸透して男の中を満たしていく。もはや男は風になっていた。頭上には、神の様に無関心な目を向けた星々が只、過去の光を放ち、その直中で顔色の悪い三日月が、鎌の様な鋭角を見せつけていた。男は脳内で音楽を奏で始めた。渇いたギターのザリザリとした音と速度がまるで三日月の様に頭を刻む。ドラムは正確に不規則なリズムを、バチバチと打ち鳴らしていた。鉄騎は再び、頭を僅かに持ち上げると、その速度を上げた。

むせ返りそうな、湿りついた夜の事、キャンプを明日に控えた男は仕事を終え、帰り路についていた。田舎の夜道を歩きながら、抱えたビールやら肉やらを右手から左手に持ち替える。右手の関節は赤みを持ち、ビリビリと麻痺してるのがはっきりとわかった。街灯のない道で、その感覚だけが明かりに照らされる様に色を持っていた。嫌にくねくねと蛇行した道は、田の持ち主達の忖度した結果であろうか、何もないはずの田舎で自分の家を周辺の民家で隠している。幼い頃から毎日の様に歩いた道であった。突き当たった小さな神社を左手に曲がり一捻りすると、少し先に男の家が見える。一点だけ光る街灯が目印であった。小さな川を右手にして、柳の木を一捻りした。僅か先にあるはずの男の家は異常な光を放っていた。咄嗟にしゃがみ込むと、柳の葉が生気を失った様にゆらゆらと揺れた。昨日まで、変わらない日常を繰り返していた筈の生家は轟々と燃え盛る炎に染まっていた。鮮やかな炎は生きているのであろうか、無数に伸ばした触手をうねうねと伸ばして、我が家を内側から食い尽くしている。巨大な光は、しんとした暗闇に美しい赤を命の限り広げて、夜空に向かって、その両手を伸ばしては星を捕まえんとしていた。ふと、その暴走を見守るように一人の女が、数時間前まで生家であった場所に立っているのがわかった。柳の影から、ほんの数センチだけ、顔を出す。炎を反射するようなエナメル質な黒いボンテージに、頭を覆うマスクまで同じ素材で、耳は猫のそれと同じ位置と形をしていた。女は全て見通したように、こちら側を振り向くと、口角をギュッと上げた。マスクの隙から見える、くりくりした瞳にまつ毛がキラキラと輝いて、唇は血液に似た深い赤を帯びている。男の全身には美しさと恐怖が共存した。女は何も言わずに一度しゃがむと、反動をつけて点高く飛び上がった。瞬間、生家から大きな爆発音と共に、羽化する様に光を多く含んだ白っぽい炎が、辺り一体に飛び散った。既に女は闇に溶けていた。

山道は、未だその様子を変えず、蛇行した道が一寸先の行き道を隠している。鉄騎は嘶き、脚力は疲れる事を知らずに、グングンと斜面を進む。目的地まで後半分くらいは到達しているであろうか。心なしか藍色の空気が、青に近づいている気がする。頭上の星達も、先程よりほんのり薄くなり、青に溶け込む準備を始めている。雪崩れ込んでくる風の濃度も薄くなり、男も新しい風になりかけていた。瓶の蓋を開ける程度の力を右手に込めると、エンジンは驚き、無心に脚部へ命を流し込んだ。そうしている内に、男も愛馬も風も山も星も全てが一つに混じり合った気がした。男の感覚は溶けてさらさらと流れ星の尾の様に消えていく。エンジンの振動も、ガソリンの揺れかたも、山道の石粒も、銀のチェーンの打ちつけも、何も感じない。景色すらも、透明になった。
山道を登る風は真っ赤なテールランプを燃やしながら、ぐんぐんと只ぐんぐんと山に絡みつく蛇のように、登っていく。

男は、ふと意識を取り戻した。風も愛馬も星も、一斉に男との通信を遮断し何事もなかった如く素知らぬ顔をした。
「マシュマロ  忘れた」
風に吹かれた銀のチェーンが男の太ももをいっそうバチバチと鞭打った。

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