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【ショート小説】止まんない愛を1・2・3

人知れず八重咲きの竜胆が季節に似つかわしくない、水色の花弁をたわわに開いていた。鏡を覗き込んで襟を正すと、神父は無言のまま明るく照らされた廊下を歩いている。胸には真鍮で出来た神の像を忍ばせ、奥にある一室の扉を開けた。必要以上に日の光の入る部屋には、アクリルの境越しに一人の男が座っていた。男は神父に目を合わせる事もせずに、部屋の隅から只鉄柵に遮られた窓から差し込む暖かな日差しを眺めている。
「おはよう。気分はどうかね。」
神父は手にした聖書を机の上に置くと、ゆっくりと腰をかけて穏やかな言葉を発した。男は無言のまま、日差しの元を探すように僅かに顔を上げ、
ぶつぶつと何かを呟いている。神父は薄い笑みを表情の下に隠したまま
「どうした。気分でも悪いか。」
そう問いかけ、じっと男を見つめた。短く刈り込まれた頭に血色の悪いくすんだ肌が繋がって、目は大きく窪んでいる。男は自分をじっと見つめる神父の視線に気付くと、沈み込んだ瞳を大きく開けて、アクリル板に走り寄ってきた。
「気分なんかいい訳ねぇだろ。俺は殺されるんだよ。」
アクリルに顔をつける寸前まで張り付いてそう言った男の頬は異常な程にこけていて、皮膚の下にある骨の隆起がくっきりと見える。
「主は全てを許される。これからどれだけの時間があるかは分からないが、心穏やかに。」
神父の言葉を受け流しながら男は椅子に座ると、じっと神父を見返して
「神様がいるんなら、何で俺はこんな人生なんだ。幸せなんて何もなかった。生きてる何の意味もない。不公平じゃないか。」
真鍮の眼鏡を正しながら、神父は男の目をすっと見る。
「そんな事はない。生まれる事、それ自体に意味がある。」
男はじっと神父を睨みつけると右手の人差し指と中指を絡めながら息を吐く。
「そうかい。俺が生まれた時、誰も祝福なんかしなかった。何せ、母親が中絶出来ずに公園のトイレで生まれたからな。全く、とんだ親ガチャ失敗だ。それからずっとだ。誰からも喜ばれない。選ばれる事もない人生だ。」
男は一瞬ニヤついて続ける。
「なぁ、だから俺はめちゃくちゃやったぜ。すぐに捨てたけど、親に見せてやりたかったからな。これが、あんたの血を分けた子ですってね。」
神父は深く大きく息を吸い込むと、僅かに空気に波紋が広がった気がした。
「罪はいつか許される。君にその気持ちが芽生えれば。必ず主はお導き下さる。」
聖書にかざされた神父の右手は滑るように、その表面を円を描くよう動いている。
男はその手元を一度だけ見ると、目線を神父の眼鏡に移した。
「あんた、俺が何で殺したか知ってるか。誰も俺を選ばなかったからだ。女も教師も親も皆んな俺を選ばなかったから殺したんだ。誰からも選ばれなかった俺が神になんか選ばれる訳ねぇだろ。」
深く冷たい言葉が、アクリルの向こうで降り積もる雪のように男を飲み込もうとしている最中、神父は聖書のページをパッと開いた。
「人の罪を赦さば、また汝も赦されん。どうか、両親を赦してあげなさい。それによって、あなたもまた赦される。」
その神父の言葉を聞くや否や、男は活火山のように顔を赤く染め上げると、言葉にならない叫びを上げながらアクリルを拳で殴りつけ始めた。
「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。」
すぐさま部屋に駆けつけた二人の看守に押さえつけられた男は、地面に顔を擦り付けてもなお、神父に対しての殺意を繰り返していた。

時は過ぎて、竜胆の蕾が朽ちてその隙間を縫うように新芽が顔を見せる頃、男は独房で自分を呼ぶ感情の無い声を聞いた。その主に導かれるまま、異様に静かな廊下を歩くと一室に招き入れられ、首に太い紐を通した。
神父は自宅の日当たりの良い庭で、小さな新芽を愛でるように竜胆に水を与えていた。そろそろかと近くにある椅子に腰をかけて、熱い湯で入れた茶を一口含んで庭を見る。
男は自らを支えている薄い床にどっぷりと汗を垂らしている。顔には袋を被せられ景色を見る事も出来なかった。暗闇は只、冷徹にその時を待っている。
春先の庭に柔らかな風が靡いて、冬場を越した疲れた葉を癒やしている。神父は優しく笑みを浮かべ
「よかったな。選ばれたじゃないか。お前は数少ない死刑囚だ。充分だ。これで肩の荷も降りる。とんだ、子ガチャ失敗だったがなぁ。」
そう呟いて茶を飲み干して、うとうとと眠気に沿って瞳を閉じた。

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