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【ショート小説】回転円舞曲6号

深い眠りに落ちると、静かに瞼を閉じた。
最後に聞こえていたのは、囁くような鳥の声であった。白い羽毛にすり鉢で砕いた胡麻模様が薄っすらと背中に散りばめ、慎ましげに小刻みな動きを繰り返している。
自分はもう生き絶えていた。

いくらほど時間が経ったのだろうか、先程死んだようにも百年の眠りから覚めたような気もする。瞼を越しに薄く日の光が眼球に差し込んでいるのがわかった。自分は、あぁここがあの世かと思い、死の瞬間より幾分早く瞼を動かして、腰より上を上げて辺りを見廻した。
鮮やかな色を携えた、椿の花が辺り一面に咲き誇り、その周りを色を薄めたようなアキアカネがゆっくりと上下に移動している。椿の後ろには、その向こう側を隠すように整然と白樺の木が立ち並び、枝に掴まったメジロが、甲高い鳴き声を上げた。季節は分からないが、何故か春の様に思えた。心地よく葉の隙間から溢れる日に、顔半分を照らされると微かに桃の熟さんとする甘い匂いが体内に入り込んできた。
極楽は蓮子ではなく、椿であったか。そう思うと誰かに教えてみたくなったが、自分はもう死んでいる事を思い出した。
「お前にはこれから、地獄に行ってもらう」
ふと、地の底から大きな声が聞こえてきた。何がなんだかわからなかった。声の主を探そうと地面を見入る。白詰草の群生がそれを阻むように生えて辺りに何かがいるかは、到底分からない。次第に白詰草は地に沈み込み、自分の足を絡みとるとゆっくりと身体を引き摺り込み始めた。何だこれは、自分が地獄に行く⁇そんな馬鹿な。何も罪も犯したつもりはない。これは何かの間違いである。そう思いながら地面に鼻頭まで沈んだ時に、一匹の小さな蜘蛛が、こちらを眺めているのが見えた。「六道の残りにて改めよ」
そう言うと蜘蛛はそれきり動きもせず、只じっと自分が沈んで行くのを眺めていた。

暗闇から目が自由になったとき、そこには薄黄土色の乾いた地面が広がっていた。上空より落ちてきた筈であるが、不思議と痛みはなかった。手の平にへばりついた土がパラパラと地面に舞うと、立ち上がった眼前に大きな山が聳えるのが見えた。針の山かと考えた瞬間、大きな落下音を聞きつけ、どこかからともなく近づく気配を感じた。彼方より無数の鬼がこちらに向かい、走ってきている。いきりたった鬼達は大きな爆煙のような土埃を上げ、一心不乱に標的を目掛けて獣のような足を動かしていた。逃げなければ。そう考える刹那、足元の大地はぬかるみ自分の足を掴み切ると、再び溶岩の様に硬く冷え固まった。一里ほど先に居たはずの鬼達は既に自分の目からはっきりと視認が出来る位置まで迫っていた。
どの鬼も上に四つ下に二つ、合わせて六つの目を持ち、ぎょろぎょろと動く眼球は各々、異なる方角を向いていた。先頭の鬼が自分の目の前に到達するやいなや、満ちた月の如き巨大な手で頭を包み込み、一気に首を胴体より引き抜いた。自分の意識ははっきりと残り、只痛みと恐怖が満ちていた。鬼達は各々四肢を引きちぎったり、臓を引きずり出したり自分の身体を一心不乱に破壊している。自分は、投げ捨てられた生首のまま、その光景を痛みと共に眺めていた。「涙も出ぬか」一人の鬼がゆっくりと近づくと、獣の様な足を自分の顔に押しつけ、猛烈な力を込めた。氷の様に冷え固まっていた大地は再びぬかるみ、自分の首はズッポリと沈んでいった。

ズシンと身体に痛みが走った。どうやらまた別の世界へ落ちたようであった。身体は再びその実態を取り戻し、引き裂かれたはずの服も元に戻っていた。ぬかるみを抜けた先は、血液をいく年も吸い取ったような赤い色をしていた。いたるところに、打ち捨てられたように炎が立ち込め、ゆらゆらと大地を照らしている。次に起こるのは何だ。ゆっくりと立ち上がると不思議と先の地獄の痛みが消えている事に気づいた。辺りには、瓦礫の山が散乱し、空には黒煙の如く、鬱蒼とした雲がこの世界を隠すように覆い被さっていた。一時すると背筋が凍る感覚を覚えた。ざっざっざっと、彼方よりこちらに近づく足音が聞こえてきた。鬼であるか。そう思ったが、先の地獄とは異なる音であった。整然と一定の間隔を保ちゆっくりと只確実に忍び寄るその音は、よく調整されて乱れる事なく世界全てに鳴り響いていた。これであれば。自分はそう思うと音とは反対を振り向き、持てる力全てを足に込めた。瞬間、血液色の地面より、一本の幹が生えてきて、自分をその枝で絡め取ると、天高く持ち上げた。幹はその中央辺りより横に枝を伸ばし、腕を両側に広げると、自分にも同じ姿をさせた。枝は朽ちる寸前のようにからからと乾いた質感であったが、ガッチリと身体を固定し自分を捉えて動かす事すら許さなかった。ざっざっざっ。あれ程遠くより鳴っていた足音は既に背中の後ろでその調子を止めた。しんと静まり返った。汗は額より吹き出して僅かばかり目に刺激を与えると、すぐに乾いた。「構え。」何者かがそう言うとカチャカチャとした金属音がいくつも聞こえた。「打て」感情のない乾いた号令がなると、コンマ数秒遅れてパンパンパンと、嘘のようなチャチな音が、降り出した雨のようにいくつも鳴り響いた。いくつもの弾丸が自分の背後より、十字の幹を貫くと身体を飛び越え、彼方へ消えていった。下の地面は先程より鮮やかな赤に染まり、打ち砕かれた腕と胸から、その染料が飛び散っていた。痛みは、染料の量に比例するように身体の内側から脳を破壊しない程度に広がる。意識はまた、遠くならずはっきりとその痛みを感じさせている。弾丸の雨が途切れることなく降り注いでいると、やがて自分を支えていた幹の根元が腐るように折れた。地面に落ちる刹那、自分を撃ち抜いたものの姿が見えた。芸妓のような真っ白な顔に黒ずんだ軍服を纏った集団は、幹を撃ち落とすと、それぞれ近くいるものを撃ち合っていた。自分は地面に落ちるとそのまま、血液の海に沈み込んだ。

三度目の落下であった。
落ちた先は泥水の溜まりであるようで、先の世界の血液は既に分からなくなるほど汚れいた。不思議な事に、この世界では眼球以外は動かす事が出来なかった。
眼前には自分が落ちてきたはずの空が広がっている。薄みがかった灰色の中に、ちらほらと青空のかけらさえ望める。自分は音を聞く為に静かに瞼を閉じた。それ以外の術はなかったからかも知れないが、暗闇は幾分か恐怖を和らげてくれる。一体なぜ、このような目に遭わねばならぬ。泥水は微かな風に吹かれ、言い表せぬ音を立てた。これが波紋の音か。そう思うと、急に腹に痛みを感じた。先のどちらとも違う、生々しい力であった。瞼を開けると、痛みの先には、腹だけを異様に膨らませた子供とも老人とも見える鬼が、自分の腹の肉を黒ずんだ歯で引きちぎっていた。これが餓鬼というものか。以前、何かしらの本で見た鬼の姿が正に自分の腹を貪り食っている。餓鬼は腹を飲み込むと悲鳴のような唸り声を微かに上げ、再び肉に齧り付く。幾度もそれを繰り返し、自分の腹を食い切った時分、餓鬼は涙を流し今までよりやや力の入った咆哮を上げると、足に残る僅かな肉に標的を変えた。齧り付く度に、鈍く広がる苦痛は最早慣れ自分は只、一匹の餓鬼に食い尽くされるのを倒れたまま認識する他なかった。餓鬼の落とした涙は、次第に水溜りに溜まり込みその量を増やしているように思えた。背中から耳まで浸かるとようやく自分が泥水に沈んでいる事に気がついた。次はどのような地獄であろうか。餓鬼はいつのまにか涙と泥水に溶け込み、口から自分の身体に侵入すると酸素という酸素を一瞬にして食いつくした。意識は初めて遠くなっていくのがわかった。願わくばこのまま。そう思った。

暗闇の中で、頬にぶつかる微かな水分を感じた。ゆっくりと瞼を開けると、しっとりと湿気を含んだ空気の中に緑の草原が広がっていた。朝どきであろうか、薄暗い草原は、霧雨に塗らされ、不穏な気配を残していた。自分は立ち上がろうと上半身に力を込めた時、強烈な違和感を感じた。上半身という感覚はなく、代わりに無数の腕と足がふわふわと歪に動いていた。その腕とも足とも見えるものは異常に尖り、太い豪胆な白い毛を生やしている。自分にはよく見覚えがあった。あぁ蜘蛛になったか。自分は産まれたばかりのように、考えながら足を動かしてみた。片方四つの足は各々絡まるように動き、辺りをぐるぐると回転するように自分の身体を運んだ。これは、感覚を覚えねばならん。一歩も前に進む事も無くそう考えていると、彼方より巨大な振動がこちらへ近づいているのがわかった。感覚は既に相手が自分を捉えている事がわかり、その者を何とか視認しようと目を凝らしてみる。薄闇の中に、しっとりと濡れた一人の男が見えた。薄い鼠色の着流しに色の落ち着いた、朱色の腰巻きの先がひらひらと揺れる。耳を隠す程の黒髪は顔に張り付き、その隙間より細く流れる目玉をしっかりとこちらに向けている。男が地面を鳴らして近づくたびに自分はぼんやりとした予感が、どんどん色濃く、鮮明な確証に変わっていくのがわかった。その者は、人の時代の自分であった。そして、ここは信太の森の入り口付近、明治七年辺りである気がした。自分はこの後に起こる事をうっすらと思い出していた。

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