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【ショート小説】偽りの花

整然と管理されているカフェのテラスは、優しい午後の日差しが差し込んで秋に差し掛かる時間を彩っている。インタビュアーは、目の前に座る演劇評論家に質問を投げかけていた。
「それじゃぁ、逆に今まででこれは一番ダメだって言う芝居ってありますか?」
評論家は口元に運びかけたコーヒーカップの動きを止めて、それをテーブルへ置き直すと、真っ直ぐインタビュアーを見つめ
「本物だ。本物はいかん。最低だ。」
と言うと、それ以上口を開こうとはしなかった。

「光とはこの胸の中に」
日差しの入る稽古場に、水分を含んだまま凛とした声が通った。彼女の一挙手一投足に全ての視線が集まっている。たおやかに僅かに垂れ下がった指先に力を込めないように力を込めた。監督はその演技を見つめると彼女に近づいた。
「硬いよ。硬すぎるんだよ。これ青春コメディだよ。わかってる?宝塚じゃないんだから。」
ゆっくりと指先から力を抜いて頭を下げると稽古場の床にはぽたりと汗の粒が弾け落ちる。彼女は顔を上げ、真っ直ぐに監督を見つめると、すいませんと一言言って動かなかった。
「とにかく明日から本番なんだから、しっかりしてくれ。」
監督は鋭い視線を避けるように目を逸らすと、そのまま稽古場を後にした。劇団員は皆各々談笑しながら荷物をまとめて帰って行く。
彼女はがらんとした稽古場で、一人台本を読み返しながら、ぶつぶつとセリフを虚空へ投げかけていた。明日の舞台は一風変わった青春ストーリー。男装の女性がひょんな事から名門男子校に転入し繰り広げられるドタバタ青春コメディだった。彼女は台本を閉じると立ち上がって、天井から見て斜め45度の遥かを眺めて大きな息を吸い込む。
「光とはこの胸の中に。」
百合の花に似たような指先は彼女の周囲を艶っぽく彩ると反響した声が稽古場へ吸い込まれて消えていく。この子の真意はどこにあるのか。今の今まで花よ蝶よと育てられた女の子が成り行きとはいえ、男だらけの学校に通う事になったらどう思う。そして学園生活を何とか過ごし、どんでん返しのラストにある感情は表情は一体どのような物か。ぐるぐると頭の中に役の要素を溶け込ませ、しっかりと混ぜ込む時、彼女は自分の意識が遠のいて、次第に16の無垢な女の子になって行った。僅かに力の有り余った様に足を打ち付けてジャンプをすると、世界中が八重の花の様に立体的に浮き上がり華やかな香りと色を付けるのが分かった。口角は常に少し上げたまま、彼女は元の整った顔立ちを更に美しくさせていた。

夜が明けると、新鮮な空気と光が世界を包んでいた。劇場には無理矢理に色をつけた様な花が並び、真っ暗な舞台はざわざわと観客の囁き声が張り付いている。
「大分、いい顔になったな。」
監督は彼女を見つけるとそう言って何処かへ消えて行った。普段より口角を上げた彼女はこの先の希望に満ちた世界を待ちきれない様に少しだけジャンプした。
薄っすらと流れていたBGMが段々と大きくなり、比例するように客席を照らしていた薄明かりがゆっくりと暗闇になっていく。それらが交差した時、真っ暗闇の劇場は音楽で満たされ、堰を切ったように舞台だけが明るい照明で照らされた。
「ヤバいヤバいヤバい‼︎ヤバちょんですよ〜。」
ちょっとおバカな男子生徒役の役者の声が広がると、舞台は始まる。舞台は様々な色に変化し、都度集結する役者達の熱と汗が混じり合って、進んでいく。彼女は額の汗を舞台袖で拭っては、若々しい力を暴発させながら、所狭しと舞台上を走り回っていた。物語は展開を早め、ストーリーは大詰め。文化祭中に校舎に立て篭もった銀行強盗に彼女が人質として囚われるシーンに移る。
「それ以上動くと、こいつの命は知らねぇぞ。」
犯人役の役者の手にはびっしょりと汗が滲んで、手に持つ小道具のナイフに張り付いている。後ろでに縛り付けた女の子を掴んだ手にもその熱が伝わってきた。犯人の危うさに動けないでいるクラスメイトを見ると、女の子は意を決して
「殺しなさい。早く。殺してみなさい。」
そう言って犯人の顔を睨みつける。
「それはヤバいヤバい。ヤバちょんだよー。」
犯人はおバカのセリフを無視したまま女の子の顔を見つめると
「うるせぇ。俺だって、こんな何の救いもない世界じゃなきゃ。俺だって…。人生真っ暗闇だよ。光なんか何処にもありゃしねぇ。」
唐突に感情が揺らいだようなセリフを続けて、手に持つナイフを彼女に突き立てた。
脳髄から足の指先まで全てに稲妻が走った感覚を覚えた。意識は異常にはっきりとして、駆け寄るクラスメイトの動きがスローモーションのように思えて、耳に入る言葉全てが稲妻に塗り替えられる。ふらふらと歩く女の子を抱き抱え、後ろでのロープを外した男子のセリフも聞こえなかった。
ゆっくりと震える指先を斜め45度に上げ、その先端を僅かに曲げる。
「光とはこの胸の中に」
ふっと瞼を閉じた彼女はその場に倒れ込むと、二度と起き上がる事は無かった。
にわかに舞台上でどよめきが広がると、そのまま幕が降り、客席は一気に照明の灯りに照らされた。係員は客席に劇場から出るように促すと、後方の客から綺麗に追い出して行った。数分程経つと、人のいなくなった客席にサイレンの音が木霊していた。

手元に置き直したコーヒーを見つめながら、評論家は空の色が黒く染まっていく錯覚を覚えていた。木枯らしになれなかった、穏やかな秋の風が頬を優しく撫でていく。
「大分、いい顔になったな。」
つぶやいた言葉は、その風に乗ってインタビュアーの耳に届く事は無かった。

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