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【ショート小説】ジャックナイフとレモン

「私、紅茶しか飲みませんの」
目の前に座る女は、どこか遠くを澄ました目で見つめていた。薄く肌触りの良さそうな生地に薄いスイートピーの柄が控えめに浮かぶワンピースは、春風に靡きながらひらひらと揺れている。
僕は無言で席を立つと、女の髪を鷲掴みにした。豆腐のように軽い頭を持ち上げると、全力を込めて頬を平手打ちした。困惑した顔の女に構う事なく、掴んだ髪の毛を引っ張りながら、近くにある自動販売機まで行くと、缶コーヒーを買って女の口に無理矢理突っ込んだ。ゴボゴボと音を立てながらコーヒーの缶が軽くなって行くのを感じると、そのままもう一発逆の頬を平手打ちして、その場を去った。僕は病気だった。それも完治する事の無い「不治の病」。
ある日、昼時のレストランで昼食を食べていると隣の席にいた大学生らしき三人組の、来週に控えた夏フェスの話題が聞こえてきた。なんとも他愛のない会話。僕は少し小さめに切ったハンバーグを口に運びながら、淡々とした昼食を楽しんでいた。ふと、三人組の一人が
「いやぁ、最近のバンドはマジでわかんないわ。いや、俺洋楽しか聴かないからさマジで。」
そう言うと、タバコに火をつけた。
僕は傍らにあったドリンクバーのプラスチックグラスを眺めると、そのままそれを投げつけた。
困惑する大学生を気にする事もせず、眼球に食べかけのハンバーグを押し込む。訳もわからずジタバタとしている大学生の鳩尾に取り急ぎ一発拳を叩きつけた。咳き込みながら蹲った大学生の胸ぐらを掴み店の外まで引き摺り出すと、自分のスマホとイヤホンを無理矢理つけさせ、最大音量でアニメソングを聴かせた。涎を吐き出しながら大学生はずっと泣いていた。僕は一曲が終わったのを確認すると店に戻り、千円を置いてそのまま出て行った。本当にどうしようも無い奇病だ。一生取れる事の無い十字架を背負いながら、ふらふらと帰路を歩いた。
数日後、僕は仕事の為、渋谷駅直結のオフィスに来ていた。この性分である。会社勤めは当然出来ない為、スキルを積んでフリーのシステムエンジニアとして生計を立てていた。今回は依頼人の取引先の企業と新たなシステム導入の打ち合わせに呼ばれていた。大きなエレベーターを依頼人と二人で乗り込むと、ガラス張りの向こうから遥かなビル街が足元に広がっているのが見える。勝者の景色だなと思っていると、取引先のオフィスがある階に到着した。
出迎えた企業の担当者は、平場の机に誘導するとペットボトルに入った水と紙コップを差し出して席に着く。新品のオフィスは独特な爽やかな匂いを漂わせ、観葉樹の葉は微動だにせず、胸を張った様に立っている。では早速、依頼人は鞄からノートパソコンを取り出しシンプルなパワーポイントを展開してそう言った。僕も自分のノートパソコンを取り出すと、電源を入れWi-Fiに接続させた。
「それでは、本日のアジェンダですが先日お打ち合わせさせていただいた際に頂戴した、リスクヘッジの具体的なエビデンスを説明させて頂き、いくつのタスクに分散して処理をする方向が良いか擦り合わせして、要件定義まで出来ればと考えております。」
依頼人はそう企業の担当者に説明を始める。
僕は、一度開いたノートパソコンをそっと閉じ、鞄から漫画雑誌を取り出すと、依頼人の顔面をフルスイングで振り抜いた。新品の柔らかなカーペットに椅子ごと倒れ込んだ依頼人は困惑した顔をして、こちらを見ている。僕は、すっと立ち上がり、分厚い漫画雑誌を大きく振りかぶると、真っ直ぐにそれを振り下ろした。げっと声を上げた依頼人の顔は見えず、もう二度程、倒れ込んだ顔面を打ち付けると、漫画雑誌を開いてそのままそれを擦り付ける。表紙に描かれた新連載の主人公は親指を立てたまま笑顔で僕を見ていた。
また、やってしまった。何と愚かな人間だ。僕は何も言わずに、鞄を持ってオフィスを出るとそのまま家に向かう電車に乗り込んだ。

昼過ぎの最寄り駅は、何故かいつもと違う雰囲気を漂わせて、僕を迎えている。駅を出て自動販売機で缶コーヒーを買うと、近くの雑居ビルに入ってエレベーターの十階ボタンを押した。古びたエレベーターは一度ガクンと揺れるとゆっくりと上りだし最上階に着くと僕を吐き出すように口を開ける。慣れたように吐き出されると、エレベーターの向かいに見える階段を登り、屋上へと繋がる鉄の扉を開けた。開け放たれた扉の向こうには、いつもより少しだけ空に近い風景が強い風を纏いながら待っていた。端にはちょこんと置かれた青いベンチと灰皿が見える。僕はこの場所が好きであった。誰もいない僕だけの秘密の場所。風に吹かれながら、ベンチに腰を掛けタバコに火をつけると、缶コーヒーを開けるパカっという音が僕にだけ響いた。タバコを肺に入れながらコーヒーを口に含む。雨風に錆び付いて所々茶色く変色しているフェンスに遮られた大きな水色の空を見ながら、コーヒーとタバコを交互に口にしていると、視界の隅に、見慣れない影が見えた。タバコを持ったまま近づくと、制服を着た中学生程の女の子が見えた。風は一層強くなり、長く伸びた黒髪と制服のスカートがたなびいている。中学生は近づいてきた僕に気づくと真っ直ぐ空を見ながら、こないでください。と言った。僕がその場に立ち止まって、彼女の背中を眺めていると不意にフェンスを掴んで登り始めた。意識など蚊帳の外、僕は駆け出してフェンスをよじ登る彼女の腰回りに腕を絡めると、そのままバックドロップ気味にフェンスから引き剥がした。僅かにもみ合いになり、着ていた白いワイシャツの肩甲骨辺りが裂けた。絶望に満ちた表情を僕に見せた後、彼女は
「死なせてください。お願いします。」
と泣きながら懇願して来た。僕は眉一つも動かす事は無く、握り潰した拳の骨が隆起している部分で、彼女の顔面を殴りつけた。ぎゃっと声を上げて両手で顔を庇った彼女を見て、僕は馬乗りになってお構いなしに何度も拳を振り下ろした。頭とコンクリートがゴツゴツとぶつかる鈍い音が拳から伝わる。
「け・・て。助・・・けて。」
不意に聞こえた声に拳を止めると目の前には原形を無くした歪な彼女の顔が、あちらこちらから血を流して転がっていた。ぼっこりと腫れ上がった瞳からは、無理矢理湧き出て来たような涙が溢れている。パクパクと口は酸欠の金魚の様に動き、只、助けてと繰り返していた。僕はそれを見ると近くにあった灰皿を持って来た。そうして、灰皿を持ち上げると右腕と左脚に勢いよく叩きつける。彼女はぎゃあと声にならない叫びを上げた。思いの外、骨を折るのは難しく十数回程打ちつけると諦めて灰皿を投げ捨てた。まぁ、これで当分動かないだろう。そう思うと僕は、五歩ほど後ろに下り、助走を付けて走り出すと、一気にフェンスを乗り越えて空に飛び出した。

時刻は午後二時頃、幼稚園の帰りに娘を公園で遊ばせていた女性は、中々帰ろうとしない我が子に痺れを切らし声をかけた。
「さぁ、そろそろ帰るわよ。家におやつもあるからね。」
女の子は、一瞬反抗的な顔を浮かべようとしたが、おやつの事を聞くや否や母の元へ走り出して、その手を握りしめる。
「楽しかった?」
母はいつもと同じ事を聞いた。
「あのね、ママ。今日ね天使を見たんだよ。」
母は不思議な顔をしたが、特に気に留める様な事でもないと思い、可愛かった?と聞いた。
「顔は見えなかったけど、羽が生えてた。あと、凄く速く下に飛んでた。」
母はそう、と言うとそれ以上聞き返さずに娘の手を引きながら晴れた空の下で帰路を急いでいた。

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