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【ショート小説】祭囃子2号

方々を自身より高い山々に囲まれた中、小ぶりながら急斜の為、他のどれよりも尖った山があった。領布振り(ヒレフリ)の山であった。


古びた窓枠の格子からは、麓の里が薄茶色く仄かな温かさを放出しているのが見えた。
暗く変色した布団には、烏天狗が今にもその生涯を閉じようと横たわっていた。
領布振り山にも似た嘴(クチバシ)は、その鋭角を只ゆっくりと開閉し、ヒューヒューと生命の音を立てているだけであった。
登り始めの日の光が一瞬だけ、風に吹かれて、格子から欅の部屋へ差し込んですぐに消えた。
「今、何時か」
烏天狗は、うわ言の様に虚空に向かって言葉を発した。自分は何も答えなかった。言葉の切れ端は部屋を漂って、日の光と同じ様にすぐに消えた。


麓の里には、かつて村があった。村の中央には澄んだ川が流れ、皆は農業を生業とし、広々とした田園は、遥か向こうの平野まで地続きであった。老人も子供も共に生きていた。
春から夏にかけて生き生きとした緑が村の全てを鮮やかに彩っていた。「今何時かね」子供達は皆一様に大人に聞いていた。稲穂の実る秋のお祭りが待ち遠しいのであろう。「すぐに来る」大人達は小ぶりな口を少しだけ柔らかくして、水田に分け入って行く。華奢な骨組みに隆々とした筋肉が必要な分だけ付いているのがわかった。
蝉の声が大きな青い空を揺らしながら夏の日の歯車をぐるぐると回している。水面には、大きな鷺(サギ)が片脚を曲げたまま只立ち止まり、また先の何かを一点に見つめていた。
日が落ち、蝉の声が寝床に入ると一斉に鈴虫の群れが起き始めるのが分かった。村の家からは、竈門の湯気が、各々ほんのりと立ち込め、夏の熱に溶かされる様に空気に混じっていく。いくつかの家は早々に灯りが消えて、群青を薄く伸ばした様な夜を冷ましている。明け方には、また緑に入らなければならないからである。
そうして日が登り、日が落ち、幾度もそれを繰り返していく。緑の純度は次第に落ち始め、頭の先からゆっくりと、日が落ちる様に薄茶色に色を変えていった。日はそれを見る様に、少しずつ足早に空を去る様になっていた。

遅く起きたニラの花が生気を落として白い花弁に雨粒を垂らしている。
「今何時かね」子供達はやや不安そうな声で、日に何度もそう聞いた。「今に来る」大人達は硬くなった頬に力を入れ、静かに微笑んで、そう言った。ニラの花は雨に潰され、土の上に這いつくばり、花弁は所々千切れて無くなっていた。もう雨は10日降り続いていた。土地を豊かにしていた川は濁り、そう時を待たずにうねりを含み出した。領布振り山からは桶を返した様な勢いの水が、ある種の殺意を持って流れ込んでいる。濁流は、日が落ちるより遥かに早く、川を越えて村の全てを飲み込んでいった。
実りを待つ稲穂は散り散り流され、人も虫も何もかも沈んでいき、豊潤な記憶はその日に全ての幕を下ろした。それでも尚、黒々とした空は散弾の如く雨粒を放ち、領布振り山は激しい嘔吐を繰り返している。
この雨が上がるのはこれから8日先の事であった。


湿りを含んだ瞼が、麻痺の鎖を断ち切る様に、ゆっくりと開かれていく。ガラス玉の煌めきを映したような瞳に西日が反射して、それは生命に満ちている様に思えた。黒ずんだ頬を僅かばかり動かすと、ヒューヒューとあの音が溢れる。「今何時かね」今にも千切れそうな言葉が埃にまみれた部屋に這い出た瞬間、どこからか祭囃子の笛の音が聞こえてきた。
「すぐ来る。今に来る。」そう言うと自分には、たしかにそれ以外の答えはない様に思えた。
嘴(クチバシ)をカチャカチャと打ち鳴らすと端から黄色い涎がゆっくりと垂れ始めているのがわかった。
「辞世の句を」自分の言葉が聞こえているのかは、既に分からない。
瞬きを大きく一度だけすると、澱んだ涎には気づく事もなく、今にも消え入りそうな震えた声はこう詠んだ。
「領布振りの 裾に聞ゆは 童歌
縁消えにし また来る世まで」
涎には小さな泡が混じり、音も立てずに弾けていた。
「すぐに来る。今に来る。」
そう言い切ると、古びた窓格子を擦り抜けて一陣の風が、強く吹き込み髪を掻き乱して方々の隙間から逃げていった。
伽藍堂の小屋の小さな窓からは、麓の景色が彼岸の赤い色に染まっているのが見えた。

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