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【ショート小説】パスコードみたい

「明日の東京は雪になるわ。」
静かな微笑みを床に落として、娘はベージュの鞄を引き寄せた。細く白い腕には幼い頃の危うい脆さが今でも見る事ができて、思わずふっと息を零した。
「そうか。」
病室の窓から外を見ると燦々と降り注ぐ太陽の光が、僅かばかり夏の香りを残して遥か彼方まで真っ赤に染め上げているのが見える。私は窓辺に置かれた水を一口含んで、娘を見返す。娘は目を挙げる事無く、そのまま無言で病室を後にした。もう一度、窓の外へ視線を移すと、つい先程まで紅葉していた太陽はすっかり青黒い染み付いて、腐り落ちた果実を地に落とす様にゆっくりと沈んでいる。娘は、昔から変わった子だった。変わったと言っても社会に馴染めなかったり、ましてや心霊の類ではなく、只誰よりも嘘をつく子であった。それは、何か後ろめたい事や自己擁護では無く、全く意味もないものばかりであった。
「近所の野良犬が自動販売機の下から小銭を漁って、お菓子を買っていた。」
「クラスの女の子に一人だけ男が混じっている。」
「砂利道の100本の内1本に、宝石が落ちている道がある。」
意気揚々と話す娘を、周りの人達は遠巻きに不快な視線を送っている事が多かった。私と妻はその視線もどこ吹く風。娘の話す、意味もないホラ話を目を丸くさせて、聞いては笑っていた。そんな私達を見て、娘も笑った。そうして、幾年が走り去り、娘は段々と嘘をつく事が少なくなっていった。私も妻も大人になっていく娘を見守りながら、いつまでも笑っていた。風が吹き荒ぶ様に日々は過ぎ去り、昨年末に妻が他界した。私と娘は無言で妻の遺骨を拾い上げ、明日の事を考えるばかりであった。

外は遂に光を失い、輪郭をぼやかせた紅葉の葉が暗闇の中でゆらゆらと蠢いてる感覚だけがわかる。私はゆっくりと視線を動かして、先程まで娘の温度を染み付かせた椅子を見た。椅子の下には雪解け水の様な水滴が、夜通し渇かない意思を持って佇んでいた。
「雪はもう降ったのか。」
私は瞼を静かに下ろし、昔の事を思い出す。記憶のフィルムはセピア色の思い出をピントずれのまま即座に再生していく。娘が産まれたての頃なかなか寝付けない子だった事。幼稚園の頃、一度だけジュースと間違えて、酎ハイを飲んで大慌てした事。小学生の頃、夜な夜な家を抜け出して、近所の野良犬に餌をあげていた事。そうしてセピアのフィルムがどんどんと場面を変える中ふと気付いた。そうか野良犬の嘘は娘が餌をあげにいく伏線だったのか。数十年越しの謎解きに口角が僅かに緩んだ。フィルムは廻り、娘が18歳になった場面になった。
「お父さん、お母さん。話がある。」
その時の娘は妙に視線を逸らさず、低い口調で私達に向き合っている。
「私、男として産まれてきたけど、心は女なの。これは、変えられない。認めて貰おうとも思わない。只、はっきり伝えたかったの。」
広々としたリビングは沈黙に包まれた。私は直ぐに口を開く。
「いや、そんな事とっくに分かっているけど。」
ふっと妻が吹き出して、一気にリビングに温度が戻った。娘は呆気に取られた表情のままぼろぼろとスカートに涙を落としていた。私はやっぱり変わった子だと思って娘を見ると、薄いピンクのファンデーションをぼろぼろに崩したまま、こちらを見て笑っていた。

ここで私はまた一つ気付いた。娘のクラスの女の子の嘘は自分自身の事だったのか。謎解きと共に少しばかりの自責の念がフィルムを彩る。そうか、あんなに小さい頃からだったのか。何故その時に気付いてあげられなかったのか。私はやはり良い父親ではなかったな。そう思うやいなやフィルムは回転を緩やかに止めていく。真っ赤なカーテンは、回転の余韻と似たスピードでゆっくりと確実に幕を下ろしていた。

瞼を開けると、道の真ん中に立っていた。どこか懐かしい様で、見た事もない一本道であった。川縁に沿うように続く道は果てが何処に行き着くかも分からないほど真っ直ぐと伸びて温度を持たない日の光を受けて、風が緩やかに輝いている。私は何故だかゆっくりと歩き始めた。道の端には所々に松葉牡丹が咲いていて、濃い桃色の花弁を風に泳がせている。踏み締める砂利は私が進む事を知らせるようにジャリジャリと音を上げた。眼前には、風に押し流されるように薄い雲が足早に通り過ぎては、また新しい雲が過ぎていった。
いったいどの位歩いただろうか。自身が何処へ辿り着くかに一抹の不安を覚えた時、ふと遥か向こうから誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。白いワンピースを松葉牡丹と同じ流れで揺らし、軽やかに確実に近づいている。私は立ち止まったまま、動けないでいた。ゆっくりと只雪解けの水が地面に染み込み川に流れ込むように眼球から頬を涙がつたった。歩み寄る人は爽やかな春の笑顔を満面に咲かせいるのが分かった。
「お疲れ様でした。あなた。」
私は少しだけ足に力を入れて、その人の手を取る。宝石のようにキラキラと輝く瞳に照らされ、涙はキラリと光って地面へ落ちた。
果てのない道は只々真っ直ぐ伸びて、風は二人を通り過ぎるばかりであった。

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