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【ショート小説】山猫12号

自然と瞼が開いていた。意識は混濁とせめぎ合い、やや優勢な力が争う事を許さず後頭部を引っ張って枕に押し込まんとしている。目の前は只の暗闇ではなく、外から差し込んだ月の明かりが足元のはるか先を白く染めている。自分は、何とかならないものであろうか。と思い右手に寝返りを打ってみた。眼前には腹をさらけ出して主の枕を我が物とした猫が眠ったままペロペロと舌を動かしている。果たしてこいつは本当に猫であろうか。聞いた話によれば、猫は元来腹は隠す生き物らしい。であるならこいつは猫では無く、何か別の生物では無かろうか。時計の長針が丁度真下に降り、下にいる猫を差した頃、自分は深い眠りへと落ち込んでいた。

薄く日差しのさす部屋は何処かよそよそしく、見慣れた自室の程をとっているが何物かの幻影である事がはっきりとわかった。辺りには居るはずの女房と子供の気配すら感じられず、しんと静まりかえって取ってつけたような穏やかさだけが不信感を掻き立てている。ふと、押し入れからドスンと音がした。自分は雲の上を歩くようにふわふわと音のする方へ向かうと、じゃじゃ猫がこちらを向いて大きな欠伸をした後に、にゃあと鳴いた。そうして畳の上をとことこと歩いてきたかと思うと、自分の足に顔をつけ、すりすりと匂いを擦り付けては、再びこちらの顔を目掛けにゃあと鳴いた。自分は段々とこれは現実ではなかろうかと思い出し、戸棚にしまってある猫の餌を取りに向かおうとしたその時、ぐっと何物かに肩を掴まれた。忘れていた感覚が一気に甦り、ばっと後ろを振り向くと、そこには奴が立っていた。自分と左程変わらない背丈に生成りがかったジャケットを纏い、形の悪い山猫帽を被った奴はニタリと笑うとゆっくりと手を伸ばし、自分の口を押さえた。ゆっくりとした動きであるはずだが、自分の体は硬直し、何故だかそれに抗えずにいた。奴は穏やかな笑みを浮かべたまま、口に添えた手に段々と力を込めていく。あぁ、またか。自分は頬に何かざらざらとしたものを感じ、次第に意識は遠のいていった。

足元にあったはずの月光は、いつの間にか瞼を照らす日光に様変わりし、自分はばっと布団を剥ぎ、辺りを見渡した。いつもと変わらない寝室が朝日に照らされ、不思議そうにこちらを見ている。額には今ほど乾いたであろう汗の痕跡が無数に張り付いている気がする。ため息をつく間もなく時計を見るといつもの起床時間をぴったりと指していた。自分は意識の表層で安堵を感じながら、そそくさと仕事へ向かう準備を始めた。奴は一体なんだったのだろう。二日置いて今まで三度も同じ夢を見るとは、何かの暗示ではなかろうか。朦朧とそんな事を考えると、洗面台に吸い込まれる水がゴボゴボと音を立てた。

仕事を終えて家に帰ると、夕餉に支度された茄子の煮付けを咥えながら、ぼんやりと宙を眺めていた。考えは纏まらず、焦点の合わない思考と視界が電球に乗る古めかしいアルミの傘を見つめたまま、気が付いた頃には女房は子供を寝かしつける為、居なくなっていた。これは単なる寝不足であろうか。自分の現状を考察してみたが、やはり答えは藪の中で唸りを上げながら出てこようとはしなかった。

風呂を終えて外の火を消しに出ると、玄関の石畳みに月の明かりが落ちて、まるで自分を誘っているように思える。竈門の火は、音を立てる事もなく微かに残った命を燃やし尽くさんとじっとりと薪に張り付いていた。自分は汲み置いてある井戸水を手にして、竈門に少しばかり投げ込んだ。シュッと小さな悲鳴を上げ炎が消えると、微かに焦げ付いた臭いが鼻につく。さて、そろそろ寝るか。自分は一抹の些細な不安を払うように一度天を仰ぎ、玄関へと向かう。なに、このところ疲れているだけであろう。そう自分に言い聞かせると、ゆらゆらと揺れる電気の光が溢れる玄関の扉を開けた。扉に鍵をかけ土間を歩くと自分の草鞋と土が擦れて、シュッシュッっと音を響かせている。開け放った庄子の中央に猫が前脚をピンと張ったまま座り、自分を待っていた。自分はふっと笑みが溢れ、ただいま。そろそろ寝るか。と話しかけると、猫はこちらの顔をじっと眺めたまま何も言葉は返さなかった。あぁ、どうか奴が現れませぬよう。神に祈るように自分に言い聞かせながら、猫を抱き上げ寝床に向かっていった。猫は自分の胸から肩に張り付いたまま、前脚をピンと伸ばしてにゃあと一鳴きすると、既に目を閉じて眠りに落ちようとして、抗うように自分の頬をペロペロと舐めた。


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