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【ショート小説】夢中で致して

ペンを握る右手に力がこもった。切先は紙を突き破ると、腕が誘導するまま目の前の原稿用紙を斜めに引き裂いて鈍い音を立てていた。はぁと聞こえるように大きな溜息をつくと、無惨にも破れ去った紙を重ねてゴミ箱に放り込む。ここ数週間の天気は曇りのち雨が続き、窓辺から臨む景色は自分の気持ちとリンクしている様に思えた。
コンコンと扉をノックする音が聞こえたが、どうにも応える気力も無く、そのまま机に突っ伏して目を閉じた。コンコン、コンコンと数回ノックが続いた後、悪魔のような聞き慣れた声が扉越しに
「先生、入りますよ。」
と言うや否や、部屋に入り込んできた。無断で部屋に入ってきた男は、ぴっちりと整えられたワイシャツにすらっとした筋肉を隠して爽やかな空気を帯びていた。
「先生、原稿の調子はいかがですか。」
自分は、恨めしそうに原稿があったはずの手元を見つめたまま
「ん、順調だよ。さっきまでね。」
と不意に立ち上がって、この部屋から自然な動作で出ようとした。男は爽やかな笑顔を崩す事無く、自分の進路を立ちふさぎ、恋人を抱きしめるイタリアンの如く大きく手を広げた。
「今日はどうしても原稿を持ち帰らせて頂きますよ。」
男は扉を閉めて鞄から栄養ドリンクとパンを幾つか取り出し机に置いた。何故だか目の奥に溜まり込んでくる不思議な力を振り払うよう、ぶっきらぼうに机につくと置かれているカレーパンを食べ、栄養ドリンクを一気に口に放り込む。自分は、試験前の母親の如き男に向かって
「書けと言われて書けるなら苦労はしないよ。君、私は作家だよ。納得のいかないものは絶対に発表しない。どの作家もそうだろう。だから今日は無理だ。」
そう言うと、栄養ドリンクを僅かに含んだカレーパンの粕が飛び散った。男は菩薩並みの穏やかな笑みを浮かべたまま、書いてください。とだけ言うと、その場に座り込んだ。自分はまっさらな原稿用紙を取り出すと、再びペンをへし折る程に力を込め、無意識の内に文を書き殴り始めた。どれほどの時間が経ったのか、気が付いた頃には雲に覆われた空がすっかりと群青色に変わり果て、草むらもないこの土地で鳴くコオロギの声が聞こえていた。
「男は裸のまま一心不乱にフラダンスを踊り続けていた。・・・出来た。」
自分は天を仰ぐと温度を溜め込んだ脳から一気に力を抜いた。朝には真っ白だった原稿用紙はびっしりと文字が刻まれ、何枚も積み重なっている。扉前に座したまま、うとうととしている男を叩き起こすと、興奮した脳を抑える事無く原稿を渡した。
「今回は脱サラした主人公が田舎に帰り、地域復興の為、趣味としていたフラダンスをアレンジして祭りを開催するサクセスストーリーだ。これは、文句無いだろう。」
男は自分の話を無視して原稿をペラペラとめくっている。沈黙の時間は10分程続き、最後の一枚をめくり終えると
「うーん。話は相変わらず面白いんですが、何か近い作品があったような。それにこれ女性誌の作家リレー企画の短編ですよ。大丈夫かなぁ。」
出会って以来初めて爽やかな笑顔を曇らせていた。とりあえず頂きました。そう言って原稿を封筒に入れると、男は深緑の中の木漏れ日の如き爽やかさを振りまきながら出て行った。自分は微かに残る奴の香りを取り払う為に窓を開けて、排気ガスの濃度の高い外の空気を大きく吸い込む。肩に浮き上がっていた筋肉の強張りは、一気にその力を緩め、先程迄原稿の広がっていた机に突っ伏して、そのまま深い眠りに落ちていった。

嫌に甲高い声が聞こえて瞼を開けると、雨上がりの朝の光が、網戸をゆうゆうと乗り越えて部屋一面を照らしていた。どこかで鳴いている雀達は遊んでいるような気がして、傍に置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。時刻は8時を回ろうとしていた。自分は固まった身体を何とか動かして立ち上がると、関節の全てが初めて動くようにぎこちない音をバキバキと立てた。一瞬屈みかけた腰を労りながら、リビングへ向かう。誰もいない平日の朝は、仕事部屋とは打って変わって、薄暗い暗闇に仄かな明るさを薄く伸ばしている。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐと、ソファーに座り込んでテレビの電源を入れた。テレビからは特段興味を惹くものは無く、顔は分かる程度のコメンテーターだかアナウンサーだかが、おはようございますと頭頂部をこちらに見せている。ソファーに深く座り込むと、再び若干の眠気が襲い掛かって来るのを、冷えた牛乳を口に含んで何とか凌ぐ。一仕事終えた後の牛乳は格別で、ひび割れた身体全体に染み入るようだった。ふと、テレビの中の司会者が、先程とは全く違う神妙な面持ちと声のトーンになった。
「えー、昨日午後に祭りの最中に火事が起こり男女含む13人が軽症、1人が死亡した事故がありました。それでは現場からお願いします。」
テレビの画面は綺麗に整えられたスタジオから、中年のリポーターがマイクを持っている場面へ切り替わる。
「はい、こちらはその現場前になります。見えますでしょうか。既に鎮火していますが、焼け焦げた祭り会場からは未だ、焦げ付いた匂いが漂っている、そんな状況です。こちらは、地域復興の為に今年初めてこの地方でフラダンスのお祭りを開催していた会場です。」
自分は口に含んでいた牛乳を、美しくぶち撒けると画面に映る光景と事故の全貌を伺った。淡々と語られる事故の全貌を聞くと、気を失ったように眠りに落ちた。
傍らに置いたスマホは延々と着信の合図を光らせ、口周りから頬にかけて飛び散っていた牛乳は、すっかり干からびていた。

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