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【ショート小説】煙草3号

真鍮に波の様子を象った飾り細工が、左手にしっとりと馴染む。それに親指を優しく置くと、一気に回転をかけた。回転は熱を帯び、オイルを伝わって生命を帯びた炎が真っ直ぐ伸びたかと思うと、ゆらゆらと靡いていた。副産物として産まれた煙は大方肺に吸い込まれると、反動をつけて空に吐き出された。
空は白煙を瞬時にかき消して、その青さを誇っていた。眼前は空の青と海の青が重なり、申し訳程度の雲が、遥か遠くの方で静かに漂っていた。確か動いてるはずであるが、景色は止まったまま、遥かな水平線を望んでいた。「いやな天気だ」甲板の隣にいた者は、学者であった。白いシャツを膝まで捲り上げ、そこから生えている腕には、蛭のような血管がぼこぼこと浮き出ている。自分は煙をもう一度肺に含んで、灰を海に落とした。「全くです。」と知らぬふりをしながら学者の声がした方を向いて、ニタリと笑った。煙は学者の顔に纏わり付き一通りそれを撫で回すと、また青の中に消えた。「盲目の癖に何がわかる」学者の声は苛立っているのがわかる。自分は、ふつふつと脳の温度を上げる様を思い浮かべて、今頃奴の顔は真っ赤であろうと思った。「どうもすいません」学者は既に遠くにいるのがわかったが、どうにも追い打ちをかけたかった。いやにすっきりとした心持ちになって、傍にあるデッキブラシを手に取ると、仕事に戻った。
それは、とある海峡の中央に差し掛かるほんの少し前であった。

船は、帝国海軍の所属。数日前に特命を受け、軍外から使い捨ての人材として集められた浮浪者と数名の軍人が乗り付けていた。
穏やかな水面は、底に得体の知れぬ世界を隠すように、船を優しく引き込んでいる。
太陽は一段と頭上の高くに登り、じりじりと海面を焦がしていた。アァアァとどこからともなく、海鳥の鳴く声が聞こえた。盲目の眼球を軽く動かすと瞼を閉じたまま、声のする方に顔を向けた。頭の中では、真っ青な空にシミのように浮かんだ海鳥の情景が広がっていた。時間は止まった様に、色を変えず只張り付く様な熱だけが、感じられた。なんて良い仕事であろうかと思うと、手に持ったデッキブラシに僅かばかり、力を込めた。ジャリジャリと音を立てるデッキブラシが正確に汚れを捉える事は一度もなかった。
そうして、程なくして海鳥のアァアァという声が遠ざかると甲板を削るジャリジャリとした音の中に、ブルブルル、ブルブルルと聞き慣れぬ音が混じりだしたのがわかった。
自分は全身を包む悪寒と真っ暗なマントの様な恐怖に包まれた。それは、確かにプロペラ機の囁きであった。ぎこちない不思議なリズムは、エンジンの咆哮を隠すように、異様に優しく近づいている。本国のものか、敵国のものか、音だけでは判別する術を持たない。はたして、機体の色が見えない自分にはその咆哮が、呑気な挨拶にも、悪魔の吐息にも感じられた。

「北北西に舵を切れ‼︎」
操縦室から砂嵐の様な船長の怒号が、漏れ聞こえてきた。普段は、昼間から酒瓶を抱え置物の様に只座っている船長はでっぷりとした腹を揺らし、操縦室から外の様子をしきりに覗き込んでいる。自分は咄嗟にデッキにはいつくばり、這うように手探りで一歩一歩進む。早く船内に戻らねばならぬ。デッキを這う手の平には汗の水滴がぐっしょりと湧き出ていた。ペタペタと手の平を貼り付ける内に、バチんと鉄板を叩く感触が伝わり、一気に気持ちは安堵した。どうやら、ここを伝わっていけば、船内に入れる。ペタペタと壁を触りながら、産まれた仔馬の様にゆっくりと、悪魔に悟られぬよう立ち上がる。
「盲目め、邪魔だ。どけ」壁越しに聞こえる船長の怒号が自分に向いている事に気付いた。手触りは燃え盛る鉄板のそれから、やや柔らか味を帯びたガラスに変わっていた。
敵機の動きを追っていた船長の声は、眼前ににゅっと現れたナメクジの様な手の平に、命乞いに似た様になっていた。
「早く、早く舵を切れ‼︎」
船長が振り向くと、ギリギリに止まっていたイギリス製の金ボタンが弾け飛んで、遥か遠くの床でくるくると回転した。操舵師は、象の絵の描かれたマッチ箱をポケットにしまい、大きな反動をつけて、煙を頭上に向かって吐き出していた。船長は、煙とは逆に床に突っ伏して、両手で顔を覆った。「船長、どこか具合でも」操舵師は茶色く染み付いた歯をにっと剥き出し、吐き出した煙の動きを追っていた。鼈甲のアンティーク眼鏡が、煙をロックしたまま身体は自然と眼鏡の動きにシンクロし、左右にゆらゆら揺れている。しっとりと左手に握られていた手元の舵も、煙の動きをなぞる様に揺れていた。操舵師は耳が聞こえなかった。
ナメクジの足跡は、眼前の大展望を7割ほど進んでいた。

パッと、世界の光が消えて仄かな月明かりが船を照らし込んだ。柔らかな反射光は、ガラスを2度通って、一段と丸みを帯びていた。船内には、人影が消えて朽ちかけた施しが妙な現実感を与えている。寝室にあるボトルは、明日もその次も、辿り着く事のない航海を続けるのであろうか。

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