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真理に到達しやすいけど斜に構えていた自分

深く考えるのが好きな私は、情報収集力が高く、処理時間や丁寧さ、要はかける体力も人一倍な自信がある。
深く考えるのは料理に似ていると思う。
材料集めてきて、時間をかけて丁寧に調理する。これが考え方のプロセス。

小さい頃から芸術家好き。
作品に体力をかけるこだわりに惹かれる。小さい頃から仲良い人は美術作品制作が得意がちであった。 自分には到底できない×作品に体力をかける気持ちがわかりすぎるの尊敬と共感コンボだからだと思う。

到底できない理由は私は色塗りが壊滅的にできないからだ。漫画部だったこともあり、白黒なら絵は描けるのだが。
一方で映画好きながら、作品をあまり悪く言わない点は家族にも褒められる。

飽きっぽくて、真理に到達しやすいから、予想外や読めないことをする面白さのある人に惹かれる。(その意味でなくても)

昔、小学校の友人が通知表をボロボロにして持ってきたからどうしたのか聞いたら、犬が食べたそう。
そもそもうちの犬は紙を食べないので驚いた。  しかも犬が食べられる場所に通知表をおいとくのも驚き、その条件が揃ったとしてもほんとに食べたのもさらに驚き。

….これくらいの話ではないと面白くない。

中高大、”選んだ”環境だからこそ斜に構えていた。要は根本の設定(ゲームなら場面設定)を選んでいるわけだからコントロールしたくなる。

似たような人が集まることの良さも享受しつつ、やりづらさも相応にある。真理はこう、と思ってもお互い様なので敢えて言わなかったりした。
勉強できてもこれわからないか、、の連続は周りに言わないながらも自分の大学選びの進路に大きく影響した。例えば、悪口を言えば周りが嫌な気持ちになる、など。

やはり私は中学と高校で職場のような部活動だったことがよくも悪くも影響してしまっているんだと思う。
友達がいのなさと言うのも職場ぽい環境にいたからこそ、それを言語化して言うタイミングや、そもそも言うのか言わないかの所の判断訓練をしていない。

でもだからこそ役に立っていることもある。それは、いつ言わないか何を言わないかということを選んでいく、この思考回路に価値を見いだせることだ。

じゃあ結局自分はどうすればいいのか?
それは、誰なら斜に構えず素直になれるのか、誰なら傷ついていたら、悲しかったら真理正論ではなくて寄り添いたくなるのか、少なくとも時間をかけたくなるのかということを考えるということだ。

Twitterか何かで見たとある言葉が印象的だ。
壊れかけたら壊しきるのも優しさだと思う。

普通に生きていると信頼されるためにはどうすればいいのかと言う話ばかりされる。 
でも究極信頼されるかどうかというのは、相手の問題なので、私たちには最後はどうすることもできない。信頼獲得のための努力をすることができても、信頼をするかどうかの判断は相手だからだ。
でも逆にいうと自分が信頼するとなったら、それは自分でなんとかすることができる。

3つのエッセンスをまとめた。
1.信頼して、2.自分自身が斜に構えず素直になれて、3.悲しんでいたら寄り添いたくなる。少なくとも時間をかけたくなる。

ではどういう人と関わるか、3つを踏まえた人選も、また自分で選んでいくと言うことだ。

こうなると後輩から繰り返し言われてきた、自立している印象があります、もかなり腹落ちする。


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