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舞台スタァライト#4 Climax 感想

最高だった。何が何だかわからず咀嚼しきれないうちに場面が、時間が、少女たちの心情が移ろってゆき、気付いたら終幕を迎えていた。この衝撃的な経験はとても言葉で言い尽くすことはできないが、本稿ではその中のほんの少し言語化できたものを備忘録的に綴る。

再生産「する」物語

本作は、アニメシリーズと文脈をある程度共有していると言える。もちろんメディアミックス作品なので全く共有していないわけはないが、過去の舞台よりさらにアニメシリーズ(特に劇場版)とのつながりが強いように思われるのだ。より踏み込んで言えば、#4は劇場版の補完的な作品だと言いうるだろう。

劇場版において、舞台少女らは「因縁の相手」とケリをつけた。「因縁の相手」とつけることによって、前へ進むための柵を断ち切ったのだった。しかし考えてみると、「因縁の相手」と「しか」ケリをつけられていない。未来に対する不安や自分の弱さ、あるいは聖翔音楽学園という空間を離れることに対しては、自分の中ではっきりと答えを見出す過程は描かれていない。

例として、露崎まひるを取り上げてみる。劇場版の星光館のシーンでは、彼女は「なんだか、新入生みたい」とクロディーヌにからかわれて気にしたり、「しょうもないって、新国立第一歌劇団が?それとも…」と自らの主体性のなさ、観客的な意識について自覚的でありながら克服できないでいる描写がみられる(私は、「それとも…」に続けようとした言葉は、「観客気分で浮かれている私たちが?」であろうと考えている)。こうした姿は「皆殺しのレヴュー」において「言葉だけじゃ足りないの、わかってる?」とななに諭されている。しかし「競演のレヴュー」においては、そうした諸々の課題はまるっと克服し、「決めたから。舞台で生きていくって。」と力強く宣言する。大好きな華恋を生き返らせるため、ひかりを舞台に上がらせる。

こうした空白を、#4で埋めているのではないかというのが、現状での私の#4の理解である。新国立第一歌劇団に合格した実力を持ち合わせながらも、華恋と一緒に舞台に立つことにこだわったり、真矢よりも上のクラスに配属されて自分より周りのことを優先したり、といった姿は、劇場版の星光館のシーンと重なるところがある。しかし#4の第一レヴュー「NO TITLE」を通して、「舞台の上で、一人でも輝き続けねばならない」と自覚し、「舞台で生きていく」とはどういうことかを知り、覚悟を決める。このような仕方で、#4と劇場版は相補完しているのではないか、「二層展開」しているのではないかと考えられる。言い換えれば、劇場版で描き損ねた「9人の複雑な相関図の更新」を、#4が担っていたのではないか。

#4は、劇場版で抽象的なままに留められていたものを具体化してくれた、と言いたい。その最たるものが「再生産」である。劇場版が再生産「される」物語だったとすれば、#4は再生産「する」物語だと言えるだろう。劇場版で「これまでの舞台を焼き尽くし、明日の自らの糧にする」という抽象的な再生産のイメージが用いられていたが、#4のレヴューにおいてそれが具体化されたのではないか、と考えている。過去の作品(#1~#3、過去の自分たちが紡いできた物語)を、現在の自分たちに引き付けて解釈し、自らの中にある悩みや不安を断ち切る、一歩前へ踏み出す原動力とする、という行為こそが、再生産なのではないか。

そしてその行為をしていたのが、言うまでもなく愛城華恋である。独善的にいがみ合っていたところからライバルとしての連帯意識を身に着けた#1、帰属に関係なく互いに切磋琢磨していくと誓った#2、取り繕った姿まで含めたありのままの自分と迷いながらも向き合った#3。そうしたこれまでの物語のエッセンスを「今」に見出し、克服の契機とする。過去を焼き尽くして、明日への活力とする。「レヴューマスター」としての華恋のポテンシャルは、#3において華恋が「運命とは、最もふさわしい場所へとあなたの魂を運ぶのだ」と口ずさんだ時にすでに見ることができたのかもしれない。

「再生産する愛城華恋」の姿は、以下の記事でも言及している。

「道しるべがない」ということ

劇場に入った瞬間、舞台上の「バミリ」が視認できないことに気づいた。見えにくい座席だったのかもしれないし見えなかっただけかもしれないしハコの関係かもしれないが、私にはそれが「舞台少女たちの行く末を表す「目印」がない」ことと結びついて感じられて、切ない気持ちになった。どうかそれが「眩しいから見えな」かっただけであってほしい。

「道しるべのなさ」はほかにもさまざまなところに見受けられる。舞台中央に空いた出入り口は心にぽっかりと空いた穴に類比できる。何度か「星摘みの塔」のように感じられたのも、その欠如を意識させる。舞台上のあれこれは意図されていないところかもしれないが、そう解釈しないではいられなかった。

また、演出の中でも道しるべの欠如はみられる。#3まで定番になっていたプレコールは、#4ではその存在感を明確に弱めている。9人が同時にという形式ではなくなるし、これまでのメロディもなくなるわけではないがBGM的に後景化している。「出席」のようなものとして扱われていたプレコールが希薄化しているのは、9人が皆違う道を選ぶことと対応しているように感じられる。また、(記憶が正しければ)9人全員が私服姿を見せていたはずである。これも、(作中で言及されていた通り)聖翔という空間を去っていくこと、あるいは「丁寧に合わせた衣装」を選び取っていくことを示唆する。

その他、まとまり切らなかったこと

華恋の放つオーラが半端なかった。「エースクラスに合格するかも」と言われるだけのことはある。小山さんが本当にすごい。

走駝先生が良い味を出していた。少女たちを最も近くで最も真剣に見守っていたからこその情熱、思い入れ。胸が熱くなった。ひかりに頼ることを止めた今、華恋の背中を押すのは彼女しかできないんだろうな、と感じた。ライブパート(どの曲かを思い出せない)で九九組の歌を歌っていたのもすごくよかった。楽しそうだった。

ななが「離れていても忘れるはずなんかない」と断言したのが良かった。聖翔の3年間で彼女がずっと恐れてきたことが「離れ離れになって忘れてしまうこと」だったので、それを克服できたんだな、と温かい気持ちになった。「いつか誰かその言葉で その温度で私を救うの」だ。

新国劇の試験日から始まったが、ちょうど2/25(・2/26)が国公立大学2次試験日なのも印象深かった。

「NO TITLE」と出たときには「なるほどそう来るか」という感覚だったが、次の「Transition」で鳥肌が立った。第一レヴュー時点で気付いた人はいるんだろうか…
「過去からの引用」「再生産」という最も得意で特異な形式をClimaxのクライマックス(レヴュー)に持ってきた、と気づいたとき、本当に痺れた。

『綺羅星ディスタンス』の「瑠璃も玻璃も照らせ」はもちろん「瑠璃も玻璃も照らせば光る」からの引用だが、よく考えてみると光の主客が反転している。光を受けて反射するだけではだめで、自ら光を放つような存在にならなくては、という意味か。
(3月1日追記)「瑠璃も玻璃も照らせば光る」は「すぐれた素質や才能をもつものは、どこにいても目立つ」という意味であり、「照らされる」前提であることに違和感を感じていたが、九九組全体で、というより個人から個人への歌、と捉えた方がよさそうなことに気づいた。「他の役者という宝石を「照らされる」客体にしてしまうくらいの明るさで輝きを放て。私もそうするし、君すらも「照らされる」存在にしてしまう覚悟だ。そうすれば遠く離れていてもお互いに見失わないで済む。」というような華恋、あるいは舞台少女たちのクラスメートへの鼓舞であろう。

ななひかロンドン同棲は、稀に見る強硬な否定派だったので、単純にびっくりした。どう解釈を修正すればよいかを模索している。(「狩りのレヴュー」において淋しさを自覚したななは聖翔時代の同級生と物理的な距離を取る覚悟を決めたはずであり、簡単に「聖翔時代に戻りたい」と思わないようにするためにみんなと離れて暮らす必要がある。従って同棲はしていない、と解釈していた。)

キャラメリーゼフィナーレが楽しかった。

(3月1日追記)「女子高生」について
アニメで言及された「普通の女の子の楽しみを捨てて舞台に上がることを選ぶ」という舞台少女性と矛盾するように感じられる。整合的に解釈するなら、2通りほど考えられる。
①「舞台女優になる」という事実が実感を伴っていないから、自らの舞台への覚悟が薄れて「普通の女の子の楽しみ」を享受しようとした?←文脈的に不自然な気もする
②そもそも「普通の女の子の楽しみを捨てなければならない」というテーゼが乱暴なのではないか。「本物の○○ならこうしていなければならない」という議論は常に排除的であるし、「普通の女の子の楽しみ」が何かが明確にされていない以上それを捨てているかどうかも怪しくなる。聖翔祭は文化祭の様相を呈している面も多分にあるし、高校生活を人並みかそれ以上に楽しんでいる。こうした事実を踏まえると、「舞台に立つことと競合するような「普通の女の子の楽しみ」を捨てるだけの覚悟を持つべきである」という程度に解釈するのが良いのではないか。
その上で、大切な仲間と共に過ごせる時間の短さを女子高生という身分の期間の短さに対応させ、舞台女優として前進するために今を最大限に欧化しようとしているのではないか。
上記のように考えることで、これまでの舞台少女像とそこまで矛盾することなく「女子高生」という概念を作品内に位置づけることができると考えられる。



(本稿について、あるいはより広く#4について、まだまだ考えたいことが尽きないので、記事への感想や意見などお待ちしています。ぜひ筆者(@nebu_June)までお聞かせください。)


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