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『劇ス』を読み続けることについて 

※本記事は当該作品をネガティブに評価するものでは決してありません。

『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』のことを考えていると、ふと後ろめたさがこみあげてくることがある。過去の記事の中でも触れている通り、我々を舞台少女と共に「卒業」させるはずだった物語に囚われ、そこから離れられないでいるような感を受けるからである。Blu-rayのパッケージに記された「この物語の、『主演』は誰か。」という文字列を見るたびに、胸が締め付けられる思いになる。

『主演』が舞台少女であると同時に我々であることぐらい、わかり切っている。過去の作品に拘泥せず、前を向いて歩みを進めよというメッセージも痛いほどわかっている。しかし、そうして我々を突き放す作品は呆れるほどに豊かで、力強く、美しく、言いつけを破って何度でも見返したくなってしまう。

そう考えているうちに、この映画は非常に「ずるい」のではないか、と思い始める。これだけ豊かに、数度観返しただけでは拾い上げきれないほどにモチーフをちりばめておいて、これだけ美しい音楽・映像とともにこれだけ力強い少女たちの生き様を紡いでおいて、「過去の作品に拘泥するな」なんて、ずるい。制作陣の側は練りに練って、あれだけ精巧に作品を作っておいて、観客の側には咀嚼する時間を与えず突き放すなんて、ずるい。「あなたたちはもう舞台の上」ですよって、そんな急なことってない。映画を見終えた我々は、さながらひかりに突き放された華恋のように、戸惑うことになる。

まさに、華恋のようなのだ。第100回聖翔祭を十全に終えたと思えばひかりに突き放され困惑する華恋と同じように、我々はアニメ版を十全に終えたかと思えば劇場版に突き放され困惑しているのだ。

こうした戸惑いは劇場版に始まったことではない。オーディション最終日、「運命のレヴュー」が終わり「悲劇のレヴュー」が始まるや否やひかりは華恋を突き落とし、ひかりは突如として姿を消して華恋を困惑させる。明確に「過去に固執しない」などの主題は意識されていなかったにしろ、「華恋を前に進ませるため」の行動であった点で、劇場版冒頭のひかりの行動と重なる部分があると言えよう。ここにおいて、紆余曲折の末華恋がとった行動は、戯曲『スタァライト』の原典を読み、解釈することであった。

この「解釈」という作業は、ななの「再演」とは異なる。我々の文脈に引き付けて言えば、共に同じ作品を読み続けることであるが、前者は作品の細かな要素や大きな文脈をとらえそこに新たなイメージを付加することであるのに対し、後者は「眩しさ」に目を灼かれてぼんやりと作品を見つめ続けることである。表面的な行為としては似ているが、こうした行為はアニメ版において正反対の評価を受けていると言えよう。ななの「再演」は停滞的であり克服されるべきものだとされていたのに対し、華恋の「解釈」は前進的でありアニメ版の物語を大団円へと導くものだとされていた。

劇場版においてこの区別は、過去を燃やし尽くして新たなイメージ=これからの人生を付加するという「再生産」と、過去を憧憬の対象として眺めるだけの「懐古」のイメージと対応している。作中ではwi(l)d-screen baroqueを通して後者から前者へという主題が全体を貫くが、そうであれば、我々の『劇ス』を読み続ける(解釈し続ける)という行為は否定されていないことになりはしないか。むしろ「人生的」なものとしてのイメージと強く結びついているのではないかとすら思わせる。

つまり、少女たちがWSBを経験する過程を読むことを通して、我々もまたWSBを経験しているのだ。そこではこれまでの解釈を燃料に新たな解釈が生み出され、それが自己と重ね合わせられて「再生産」された自己が生まれる。『劇ス』を読むこと自体が我々のWSBであり、それによって我々は前へと進めるようになるのだ。

ここで重要なのが、我々は文字通り『劇ス』を「見続けて」生きているわけではない、という点だ。この作品がどれほど素晴らしい作品であろうと、何度繰り返し観ているとしても、人生の全ての時間をそれに費やしているわけではない。、他の趣味を楽しんだり、仕事をしたり、学業に励んだり、本作と関わりない友人や家族やその他の人々としゃべったり、本作と関わりないことを一人で沈思したりする。こうした我々の人生の多様な営みの中で、『劇ス』に魅了され読解を続ける行為は一側面にすぎず、その他の時間においては「囚われる」ことなく前に進んでいる。こうした視点は、先に述べた「『劇ス』読解は停滞ではなく前進である」という見方とも整合的であるだろう。

作中の舞台少女たちはWSBを境にきっぱりと聖翔音楽学園を「卒業」し、前向きにそれぞれの道へと飛び立っていったかのように見える。それは疑いのないことだろう。しかし、彼女らは卒業を境に聖翔と完全に決別したわけではないのではないかと思われる。エンドロールでは、ひかりが小さなスーツケース片手に他の舞台少女のもとを訪れる。そこでは聖翔時代の思い出話に花を咲かせたはずである。日々前進する中で「君の言葉」をトリガーに「あのページ」へと戻る。そうして「再生産」した身体で、また「いつもの」日々で歩みを進めているはずである。我々がしているのは、まさにそのようなことではないか。

このような「解釈」は、ただの言い訳かもしれない。自分がこの作品にすがり続けていたいだけかもしれない。しかしそれでも私は『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』を読み続けることをやめたくない。それはひとえにこの作品が素晴らしいからであり、またそれが日々の生活を潤す糧であるからである。何度も見返した2時間の映像作品から、今度はどんなことが得られるのか、どんなエネルギーをもたらしてくれるのか、楽しみで仕方ない。

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