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親父と林檎3

俺はカウンターから出た。
カウンターに両肘をついて、ヨレヨレのシャツを着た酔客の横に立った。
「大丈夫ですか?水持ってきましょうか?」
男の頭髪は脂じみ、顔は赤黒かった。
あまりの臭気に俺は鼻の息を止めた。
「酒をくれ。ウイルキぃ。ストレート」
男は呂律もまわっていなかった。ウイスキーがウイルキィと聞こえた。
「ちょっと、お客様、少し水飲んだ方がいいですよ」
こんなに酔っているのなら酒の味などとうにわからなくなっているだろうし。
「なに?」
男は淀んだ目で俺を見た。なんというか目がヤバかった。ヤバいというか、これが人間の目なのだろうか。濁り、充血し、この世ならざる者のようだった。
据わっている目というのとも違う。イっちゃってる目だ。イっちゃってるというのはこの世ならざる場所にだ。おそらく肝臓もイカれているのだろう。黄疸がでていた。
俺はじっと男の目を見た。
「いいから、お酒をください」
男は俺の目を見ながら言った。
その口調でまだ話せる余地がありそうなのが見て取れた。俺は懇切丁寧に語りかけた。
「お客様。だいぶ召しているようですので少し冷ましませんか?当店は酒の時間を楽しむ店ですので酔い過ぎるとせっかくの時間が心ゆくまで楽しめません。大変もったいのうございます。お水というのもいいものですよ。当店は普通のミネラルウォーターからガス入りの炭酸水まで豊富に揃えておりますので」俺は口から適当な言葉がすらすら出てくるので我ながらうさんくせぅなあと思いながらぺらぺら喋った。
男は頭をぐらぐらさせたかと思ったらがっくりカウンターに突っ伏した。俺は慌てた。えっどうした?
男の身体に触るのも気がひけたので、横から顔をのぞきこんだ。
すると男はいきなりグッというような声を出し、あとはいびきになっていった。
「どうした?」
すぐ後ろから声をかけられ俺は振り向いた。マスターが足音もなく戻ってきていた。
「泥酔したお客様です」
「いびきか。寝ちゃったのか。しょうがないな」
その時、カウンターのカップルの男性が控えめに片手をあげた。
俺は彼と目を合わせるとサッと頷きカウンターの中に戻ってチェックをした。
「ご馳走様でした」
女性が微笑んだ。
彼らはたまに来る感じの良い若いカップルだ。今日は悪臭ぷんぷんたる男が並びに座ったのでいつもより早めに切り上げざるおえなかったのだろう。
はっきりいって男はすごく臭かった。
一週間くらい風呂にも入らず酒を飲み続けていたのだろうか。着ているシャツも黄ばんでシミだらけでボタンなどかけ違えてみすぼらしかった。
俺はドアまでカップルを見送りに出た。
夜の空気は湿気を含んだ匂いがした。
振り返るとマスターが男の耳元で何か話しかけている。俺は遠くからそれを見た。
また親父を思い出した。
アルコール依存症。
酒の海に落ちて溺れている人間はひとりでは容易に這い上がれない。
だからこそ家族が手を差し伸べるべきだったのではないか。
俺の中に兆した考えが胸を締め付けた。
罪悪感だ。親父に俺は何もしなかった。

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