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バスタオルひろげて待っててあげる

スマホの電話帳をたぐる。た行まで行きスピードを落とす。「豊岡チーフ」の名前まで行き、詳細を押す。電話番号はふたつ。どっちだったっけ。たぶん、先に登録したほう。二行あるうちの上の番号を押す。

おそらく一年以上ぶりに架電した。コール音がする。話し中のアナウンスが流れるかな、と思いながらその音を聞く。電話した先はある相談機関だった。二年近く前まで、半年くらいの間、いや、七、八カ月くらいの間だったか、かなり密にお世話になっていた場所。「豊岡チーフ」という人は存在しない。その相談機関の名称をそのまま登録するのは危険をはらむ可能性があったため、架空の名前で登録したのだった。豊岡という苗字すてきだな。当時読んでいた小説に出てきた苗字だった。

コール音がやみ、話し中のアナウンスが流れるかと思いきや、人の声がした。え、どうしよう。つながっちゃったよ。その相談電話は話し中であることも多かったため、きょうだってどうせかけても出ないだろうと思っていた。どうしよう。わたし、その機関に相談しなければならないほど、いまは差し迫った状況にない。どうしよう。電話口に知らない女性の声が響く。定型の質問をしている。あ、はい、そうです、と自信なさげにわたしは答えた。

なんの因果か知らないが、数日前から精神的にも肉体的にもあまりよろしくない。片足をうつの温泉に浸しかけている感じ。両足浸かったらなかなか出て来られなくなるよ。足先が湯に触れているくらいのこのときに何らか対処しな。まだ文章書けてる、書こうとしてる。電話して人と話そうとしてる。仕事にもちゃんと行けてる。

「何かお困りですか?」
電話口でその相談員は聞いた。お困り、か…何に困っているんだろう。ただしんどいだけなんだ。どう伝えたらいいのだろう。
「いまはもう緊急で対処しなければならないこととかはないんですけど…ないはずなのに、とてもしんどくなってしまいます」
わたしは正直に答えた。ああ、そんなこと言われてもな、って感じだよな。どうしよう。状況や経緯を細かに話す気力はなくて、でも何か言葉を発さないとまずい気がして、わたしは意図せず抽象的な説明を続けた。一定期間お世話になった場所ではあるものの、わたしの知っている人はいない。わたしを知っている人も。

「しんどいんですね。そういうとき、何かできそうなことはありますか? これまでどんなふうにしてきましたか?」
お決まりとも言える質問が続く。わたしは、今思えば、落ち込んでいるのに無性にいらいらしていた。といってもわかりやすく何かに当たるエネルギーは持ち合わせていなくて、何かに拒否をするとか黙るといった受動的な方法しか取りたくなかった。いやなやつ。

「いろいろ、その時々でできることは違いますし、それがうまくいくかもわからないんですけど。本読んだり、散歩したり、料理したり、日記書いたり、とかはよくやります」
「そうなんですね。きょうもやってみました?」
「はい」
「どうでした?」
「あんまり」
「そうですか。うーん、お聞きすると、ひとりでやることばかりみたいですけど、お友達と会ったりするのはどう?」
「そうですね」
「お話できるお友達はいる?」
「あ、はい、一応」
「それならよかった。じゃあ、ひとりでうちに閉じこもっていないでお友達に連絡してみてはどうですか? あと、自然に触れるのもいいですよ」
「はい」
「都会でも公園とかに行くと緑があるでしょう? そういうところでのんびりすると気分も変わりますよ。これ、科学的にもちゃんと言われることですから」
「はい」
「まあ、いろいろとやってこられたのかもしれないけど、今度からもっと人と関わってみたらどうでしょうね? こころのうちを全部さらけだすことなんてないから、他愛のないおしゃべりとか、そういうものも楽しんでみたらどう?」
「はい」
「ね、そうしてみてね」
「はい」

よく喋る人だな。わたしは相槌を打つ気力もうしなって、ただ自動返答マシーンみたいな返事を繰り返していた。
もちろん、初対面の相手なのだからお互いのことは知らない状況だ。その電話にかけてくる人の困りごとはジャンルが絞られているかもしれないが、背後の情報や周辺の出来事については知る由もない。たった十数分の電話の中で、やり取りできることなんて限られている。しかも、わたしが「聞いてください!」と言わんばかりの気迫を備えてかけたのならともかく、「どうしよう…」くらいのエネルギーレベルだったのだ。うわべのやり取りになるのは目に見えている。わたし、どうしてかけちゃったんだろう。

「また困ったことがあったらいつでもかけてきてくださいね」
「はい。いろいろと、貴重なご提案をありがとうございました。それでは失礼いたします」
あ、わたしいらいらしてる。そう感じた瞬間に仕事の仮面をかぶった。トーンはやや上がり、抑揚がつく。
電話を切ってため息が出た。ああ、わたし、何やってるんだろう。

うつ温泉の長湯はよくないよ。輪郭がぼやけて感情の境界がなくなるよ。早くあがっておいで、バスタオルひろげて待っててあげるから。

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