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九月二十六日、十一時すぎ。

つい、自分のことをわかってもらいたいと思ってしまう。この人ならわかってくれるのではないか、と期待してしまう。
自分のことを理解してもらいたい、わかってもらいたいという気持ちがあまりに強いと、人間関係はうまくいきにくいのだという。たしかにわたしも、「聞いて聞いて!」と自分の話ばかりする人は苦手だ。

通常のわたしは、おおかた聞き役だと思う。美容部員という仕事を長くしているおかげで、にこにこしながら人の話を聞くことは板についた。と思う。ある意味でそれは技術のひとつだし、身につけてよかったことだとも思う。

でも、ときどき自分のことを話してしまう。しかも、この人と距離を縮めたい、縮められるかもと思った相手に、うっかり、ちょっと重いことを話してしまったりする。もちろん、言葉は選ぶ。出来事の詳細は言わない。「家族とはいろいろあって」程度に留めるようにする。

距離を縮められるかも、と感じた相手に自己開示をすることが、奏功する場合もあれば失敗に終わることもある。慎重に見極めるようにしているから、だいたい失敗しないのだけど、先日はちょっと落ち込んでしまった。ちょっと? いや、結構、かなり。

彼女とはいろいろなジャンルの話をしてきた。話ができる相手だった。深いところというか、物事の具体性を何度も何度も濾して、澄んだスープになったような抽象度の高い話題になることが多かった。人が死ぬとは、とか、遺された人のこころの変化とか。あまりお互いの具体的なエピソードは語らないようにしていた。それが意識的にだったのか無意識的だったのかはわからない。

でも、わたしはうっかり話してしまったのだった。カウンセリング後のしんどさをひとりで抱えていられなかったのだ。「カウンセリングに通っている、でもそこでの作業がしんどい」わたしは口を滑らせてしまった。

彼女は苦々しい表情で、どう扱えば音が出るのかわからない異国の民族楽器でも見るみたいな面持ちだった。そして言った。「カウンセリングに通っているたくさんの人たちは、みんなそんなに苦しいのか」言葉にするとなんということはない。でも、わたしはその言葉で一気に対岸に置かれた気持ちになった。
そしてわたしはさらに言ってしまった。「一緒くたにしないで」。ああ、と思ったけれど、発した言葉は取り消せない。遅い。遅いよわたし。「この話はもう聞けない。ごめん」彼女は言った。

たったそれだけのことだ。拒絶された気持ちになるわたしに問題があるのはわかっている。彼女は正直に話してくれただけのこと。すぐ「見捨てられた」みたいな反応をしてしまう自分があまりにも幼くて、狭い。わたしが彼女を過剰に見積もってしまったところも。受容か拒絶か、という白黒思考はよくない。誰しも、受け入れられることもあれば拒絶したくなることもある、ということなのに。もちろんわたしも含めて。

ちょっと拒絶されるとすぐにひねくれるなんて、あまりにも自分が幼いや。なんだか、いい大人になってまだこういう自分を抱えているのか、と思ってしまう。そろそろひとりで解決できるようにならないと。そりゃあ、わたしにとって大事なものをシェアした気持ちだったから、「もっと大事に扱ってよ」と感情のラッピングが過多だったとは思う。でも、わたしが大切にしているものが相手も同じように大切に思うかはわからないし、相手の自由。わたしがどうこうできる範囲のことではない。

この出来事をあまり壮大な物語に広げないでおくことが大事。「これまで話を聞いてくれたカウンセラーも、知り合いのあの人も、本当は聞きたくないと思っているんじゃないか、いつかぱつんと拒絶されるんじゃないか」なんていう不安を作り上げないように。

いいか、わかったか、わたし? 相手のこころを覗きこまないように。過去や未来をいたずらに行ったり来たりしないように。いまここ、だぞ。九月の終わりの風とひかりと、少しの湿気を肌に感じているいまここだぞ。

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