未開拓の地に踏み出せない
昨日から、かぎ針でバケハを作りはじめた。
黙々と編んでいる時間が心の癒し。
自分が世界と調和できたような
世界から受容されているような。
私はどうしてこんなに編み物が好きなのだろう。
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唯一息のできる時間
実家は息苦しい場所だった。
何をすれば認めてもらえるのか
機嫌は悪くないか
ずっと親を伺っていた。
物音がすれば
そっとリビングを覗いく。
何が投げられたのかを確認する。
何かが投げられた音ではないことに安堵する日もあれば、今日は危ない日だなと警戒する日もあった。
自室に向かってくる足音がすれば
今の自分の行いは間違っていないかを確認する。
スマホをいじっていたり
お菓子を食べていたら
教科書の下に即座に隠す。
これまで色んな行動や感情を親から隠してきたけど
勉強と編み物だけは隠さなくてよかった。
安心して取り組めた。
編み物をやっているときは
無条件にほっとできた。
自分が許されている気がして。
少し大袈裟だけど、
創作している自分ならこの世に存在していいと
本気で心から思えた。
安心感を与えてくれる。
これが、私の編み物を好きになる根源なのかもしれない。
許可が欲しい
こちらのnoteでもちょろりと書いたのだけど
幼い頃の自分は
他人からのOKがないと物事に取り組めなかった。
大人になった今でも
他人から承認されていないことをするときは
とてつもない罪悪感に襲われる。
-----私はどこか欠陥があり、存在を他人から許されなければならない
そんな信念を本気で持っていた。
"持っていた"と過去形で書いたのは
まだ完全には手放せてはないけど
その信念を手放したい希望と
少しずつ手放せているはず!という思いから
過去形で書いてみた。
まだまだ
過去の痛みに出会うのがとてつもなく怖くて
この信念を選び取ることがあるけど
それも無理はない。
このポリシーは私が26年ずっと持ち続けてきたものだ。急に手放すと、違和感があるくらい。
ずっとこのポリシーに苦しめられてきたのに
手放した途端やっぱり欲しいと思ってしまう。
何なんだよ、わたし。
慣れ親しんだ環境から離れる怖さ、そこに留まっていたいという人間の習性にうんざりする。
コンフォートゾーンというのがあるが、人間はそこから抜けられないと聞いたことがある。今の私は、これに似ている。
このポリシーのもとで生活することに慣れすぎて、「手放すと予測不可能なことが起こるのではないか?想定外の事態が起こるかもよ!」という警告が鳴る。反射的に脳が反応している。
上述の信念を持つことは、決してコンフォートではない。だから、コンフォートゾーンを抜けられないと表現するのは今の私には不適切。だとすれば、何と言おうか。
未開拓の地に踏み出せない。
これが今の私にできる最大の表現だ。
自由になりたいのになりたくない
親や誰かの手による開拓済みの街に留まっていたい。自分の土地を手にして自分の街を作るのが怖い。自分の人生を始めるのが怖い。失敗したら誰のせいにもできなくて、全て自己責任。この恐怖に怖気付いているのだ。
失敗しても自分のせい。
失敗が自分の能力を否定するものであると捉えているから、出会うのが怖い。
でも、ひとつ言えることがある。
失敗しても、できないことがあっても
私は存在していいし
私らしくあって良い。
自分を恥じる必要なんてない。
失敗は自分の価値を貶めるものではなくて、振り返るきっかけ。失敗しても私の価値は変わらない。むしろ、更なる手段を考えるきっかけを与えてくれる。
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-----私は欠陥品で、どこか足りない人間だ。
この信念を手放して、
失敗を直視する痛みを覚悟をして、
自分だけの自由な人生を受け取ろう。
自分の存在価値を他人に委ねる痛みより
失敗を直視する痛みの方がきっとマシ。
それは、自由な心を持ちながら味わう痛みだから。
手放そう。今日からコツコツと。