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地元民が巡る、くるり『石巻復興節』の景色たち

街が舞台となったり、街のことを歌っている楽曲は世の中に沢山存在している。
『東京』と名の付いた楽曲は数え切れないし、それ以外にもタイトルにはなっていなくとも都市圏 / 地方の土地が舞台として歌われている楽曲はそのジャンル問わず、ひいては長い歴史の中でいくつも生み出されている。
だからこそ、大好きなバンドが自分の生まれ育った街の歌を作ってくれた時はとても驚いた。

くるりの『石巻復興節』。
宮城県石巻市が舞台となって歌われる、いわば街の民謡である。

東日本大震災発生からまだ日の浅い2011年10月、テレビ番組の企画にて親交の深い石川さゆりさんからくるりに依頼があったのがきっかけで、主に石巻最大級の仮設団地であった開成団地に住む人々の声を集めて丁寧に紡ぎ、民謡調の楽曲として生まれたのがこの曲だ。
楽曲には5人編成時代のくるりの他、ゲストミュージシャンとしてYMOの細野晴臣さんが演奏に参加しており、のちに2012年秋の東北ツアー@石巻La Strada 公演にてくるりと細野さんでの演奏で披露されるなど、石巻でライブやイベントがある際はほとんど毎回この曲が演奏されている。

ロックバンドでありながらも『鹿児島おはら節』や『竹田の子守唄』など、古くから地元に根ざした歌をアレンジしながら披露することも多い。特にヴォーカル・ギターの岸田さんは全国各地の民謡への造詣も深く、バンドアレンジしてもなお原曲に対するリスペクトが滲み出ていると常に感じる。ゆえに、今思うと作品毎に様々なアプローチで楽曲制作に取り組んでいるくるりが、新たに民謡調の歌を作るのはある意味必然的なことだったのかもしれない。
『復興節』はシングルリリース当初、石巻市内にある物産店などでの販売か、くるり公式サイトでの販売でしか手に入らない作品であった。当時はまだサブスクもなかったためレアな曲としてタイトルのみが知られていたものの、2016年リリースのベスト盤『くるりの20回転』に念願叶って収録され、より多くの人々に楽曲が届けられるようになった。

地元の人々の声を紡いだ歌、ということで楽曲内には石巻市内の地名や訛りが沢山登場するのだが、土地にゆかりがないとなかなかその風景を想像することは難しいかもしれない。とはいえGoogleで地名を検索すれば写真などが出てくるだろうけど、それではなんだか味気ない気もする。くるりが好きで、生まれも育ちも石巻、そんな自分ができることがないかと考えた時に、地元民による『復興節』の解説をしてみようと思い立ったのだった。

前置きが長くなってしまったが、先述の通りこのnoteではくるりの楽曲『石巻復興節』の歌詞に登場する地名や訛りを、写真や文章で"可能な範囲"で解説してみようと思う。というのも、石巻は「平成の大合併」により仙台に次いで宮城で2番目に面積の大きい市であり、訛りのバリエーションやニュアンスも場所によって微妙に異なる。私は語彙よりもイントネーションの方の訛りが強いので、語彙における訛りの解説には至らない部分が少々ある。さらに、車がないと行けない場所も多々あるほか、岸田さんと同時期に免許を取得したペーパードライバーには歌詞に登場するすべての場所を巡るのはあまりにも難易度が高すぎる。承前としてどうしても行き届かない部分もあるかもしれないが、できる限りの説明として代替させていただきたい。


「やっぺす」「がんばっちゃ」

歌詞に度々出てくる「やっぺす」。その文脈からも通じるように「さぁ、やろう」という意味である。よく使われる言い方の派生としては「〜すっぺ(〜しよう)」とか、主に提案型で使われることが多い。さらには、同じ意味として「〜すっちゃ」とも言われることから、「〜っちゃ」も非常に多く使われる訛りである。例えば、地元のタウン誌のタイトルにもなっている「〜だっちゃ」とか、提案のみならず言い切りの形でも日常的に使われている。

「おっかねごどねとへだばらず」

きれいに言い直すと「おっかないことはないとへたばらないで」。
濁点がついたり言葉が少し省略されているせいで初めて聴いた時には引っ掛かりを覚えるかもしれないが、おっかない、つまりは「怖い・恐ろしいことはないからへたばらないで」という言い方になる。歌詞は幾分きれいな言い方になっているが、これがよりネイティヴに近い言い方になると「おっがねごどねどへたばらず」のような感じになり、人によっては早口だったり濁点が多めだったりもする。これらが主な石巻の訛りの特徴であり、ちなみに市街地から浜の方面に向かうと漁師町ともありより荒っぽい訛りとして変化することもある。

「日和大橋」

中央に架かっている長くて大きな橋が日和大橋

石巻には「旧北上川」という大きな川が流れており、そこを境に訛りも微妙に変わっているという話もある。その河口、製紙工場のある工業地帯と漁業にまつわる水産加工場のあるエリアを結んでいるのが「日和大橋」である。歌詞の通り、石巻で一番大きな橋なので人々、つまりは車が絶えず行き交う交通の要所でもあり、街のランドマークの一つともいえよう。車だけでなく船やヨットも行き交うこともあり、"猫の島"として有名な田代島へは船に乗ってこの橋の下を通り、写真左上に写る島へと向かうことができる。

主に田代島行きとして運行している船

「日和山」

日和山山頂にある「鹿島御児神社」の鳥居
震災では無事だったが、数年前にあった大きな余震で損壊・その後再建された

石巻市街地から程近い場所に位置している日和山。山は「鹿島御児神社かしまみこじんじゃ」という由緒正しき神社がある他に一部は公園として整備もされており、春になると市の花であるツツジと桜が満開になる名所でもある。
"日和山から見下ろせば"の一節にあるように、震災発生直後は「近所にある一番高い場所」として近隣住民が日和山に集まり、押し寄せる津波から避難した。上記写真に写る山のふもと、門脇かどのわき地区は津波が押し寄せた上に、流された車が建物にぶつかりガソリンが引火。その火は瞬く間に広範囲に燃え移り、遠くから空が真っ赤に見えるほど地域は一晩中燃え続けた。震災遺構となっている門脇小学校もこの日和山の真下に位置し、生徒や教職員が山へ向かって駆け上がり助かった話も残っている。

「おだづなよ 負けでらいね」

特徴的な石巻弁が並んだ二つのフレーズ。「おだづなよ」とは簡単に言い換えると「ふざけるなよ」の意味に近い。その派生として悪童・いたずらっ子を意味する「おだづもっこ」という言葉も存在している。親が子供を叱る時に時々耳にすることも。
「負けでらいね」も、濁点がついたり言葉が少し省略されているだけで、標準語にすると「負けていられないね」という意味になる。

「万石浦」「渡波 サンファン 雲雀野の海」

バスの車窓から見た万石浦
ここからさらに北上すると急カーブの連続で「宮城のいろは坂」と呼ばれることも

日和大橋を漁港へ向けて渡りさらに北上すると、土地が湾になった地域・渡波かわたのは万石浦まんごくうらに差し掛かる。牡蠣やワカメなどの養殖業が盛んな土地で、車で道路を走ると道端に牡蠣殻の山や牡蠣小屋を見かけたりもする。渡波から万石浦方面に向かうと「サンファン館」が見えてくるのだが、おそらく石巻市外の人にとっては馴染みの薄い場所かもしれない。
簡単に説明すると、伊達政宗の命により仙台藩家臣・支倉常長はせくらつねなががスペインおよびローマと交流を図るべく使節団を率いて渡欧したのが江戸時代初期のこと。そのための船こそが「サン・ファン・バウティスタ号」であり、出発地が石巻の月浦つきのうら地区とも言われていることから、万石浦地区に「サンファン館」という施設が建てられたのだった。サンファン号も石巻のランドマークの一つなのだが、震災の津波による侵食と老朽化により取り壊され、先日ようやく1/4スケールの復元船が完成したところである。

また、先述の門脇かどのわき地区に隣接し、製紙工場のある工業地帯こそが雲雀野ひばりの地区で、工業夜景がきれいなスポットとして写真愛好家には有名となっている。震災後に新たに防潮堤が建てられたものの、その上を登ると遮るものが全くない、どこまでも続く水平線が広がっている。

Reborn-Art Festival 2022より
写真中央を一直線に伸びているのが震災後に新しくできた防潮堤
スチームパンク的世界観、みたいな製紙工場の一角

「金華山」

万石浦まんごくうらを半島に沿ってさらに北上し、鮎川港から船に乗っていくと辿り着くのが金華山きんかさん。霊山として知られており、島内にある「金華山黄金山神社」に3年続けてお参りすると一生お金に困らないと言われている。
歌詞にある"親潮 黒潮 ぶつかるところ"の通り、金華山沿岸は豊富な漁場となっており、主にサバなどがこのあたりから獲られているとのこと。
(車と船を乗り継がないと行けない場所のため、未訪問)

その他背景や考察など

冒頭にて記した通り、主に石巻最大級の仮設団地であった開成団地に住む人々の声を集めて歌詞が作られた『復興節』。仮設団地には石巻の様々な沿岸地域にていずれも被災し、次の住処が決まるまでの住家として大勢の人々が身を寄せていた。震災前のご近所さんと仮設団地で再会することは稀にあったものの、ほとんどは何もなければ孤立した世帯のまま。ご近所付き合いが上手くいけばいいけれど、必ずしもそうとは限らない。特に高齢世帯においては引きこもりがちになる話はしばしば問題にもなった。そんな時に活躍したのが震災復興に従事したボランティアの方々だった。
仮設住宅団地の集会所で週に何度かご近所さんが顔を合わせられる機会を作り、住民同士が新たな縁を作るきっかけを生み出した。それは住民全員が仮設住宅を退去して、災害公営団地に主な住居を移した後も形を変えながら現在に至るまで続いている。
そんなことから、各々に孤立していた世帯を"渡り鳥"に例え、一羽だった渡り鳥が群れを成すように繋がりが生まれていったことから"渡り鳥さえ一羽じゃないよ"と"ボランティアさんありがとう"のフレーズが生まれたのかもしれない。

また、"笑顔で話す被災にも"の一節にドキッとした人もいるだろう。
これは肌感覚ではあったが、皆がそうではないにしろ、被災したことを明るく話す人も少なくなかった。それは対市外の人のみならず、仮設団地でのご近所付き合いの中にも現れていたようにも思う。「どこで被災したの?」「〇〇で」みたいな感じで。
もちろん、根底には深く悲しい気持ちがある。涙が枯れても泣き続けた人もいる。
余計な心配をかけさせたくなくて、無理に明るく努めた時もあった。
でも、いつまでも泣いたって仕方ないだろうと仮設団地の人々は思ったかもしれない。それこそ「おだづなよ」の気持ちから徐々に奮起し、繋がりが生まれた近隣の人と手を取り合ってなんとか生活を立て直そうとする当時の思いが『復興節』には込められていると感じている。それが強く表れているのが、最後のパートにある"負けるもんかのすぐそばに 友の絆が生まれます"の一節。親しみやすい民謡調ではあるが、ただ単に明るいだけでなく、そこには苦しみや悲しみを経て見出した重みのある希望が歌われているのだ。

最後に

なぜ、このタイミングでこのようなnoteを書いたか。別にタイミングなど特段意識してはいないけれど、震災の発生した3月にアップした方がより意味があったかもしれないが、それでは一過性に終わってしまう危機感があった。
石巻は震災によりその名が広まってしまった街ではあるが、3月になれば突如として現れる街ではなく、震災前も震災後もいつまでも変わらずそこにあり続ける街だということを知っていてほしい。強いていうならば伝えたいことはそれだけでしかないとも思っている。

『復興節』が完成して石巻の人々にお披露目するべく、くるりが仮設団地の集会所でお披露目ミニライブを行ったのは2011年11月のこと。震災前年からくるりのファンだった私は前日の夜にTwitterでその情報を知り、翌日学校から急いで帰り、制服のままで街灯も少なく真っ暗な夜道を自転車を吹っ飛ばして駆けつけた。そこで初めて披露された『復興節』を、仮設団地の住民であろうおばあさん達が楽しそうに一緒に歌っている姿を今でも覚えている。
仮設団地の夏祭りでは盆踊りとして『復興節』を近所の人達が笑顔で踊っていてとても嬉しかったし、なによりファンだけでなく、地元の人達にも愛されていることが心の底から嬉しかった。
そして、震災から13年経った今もなお、くるりは石巻に心を寄せてくれている。
ネガティヴな意味を持つ震災がきっかけの縁だったけれど、あれから楽しい思い出を現在進行形で一緒に作ってくれることが、たとえいつか地元を離れたとしても口ずさめる故郷の歌があることが、どれだけ幸せでありがたいことか。

石巻は仙台から電車やバスで向かうには約1時間超で、決して「お気軽にお越しください」と言える距離ではないけれど、もし足を運ぶ機会があった際には、是非とも街を巡りながら『石巻復興節』を聴いてみてほしい。
1ファンとして、地元の人間として、この歌がいつまでも口ずさまれて愛され続けることをささやかながらに願って。

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