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国家の価値観をアノミー型核家族が溶解させる エマニュエル・トッドの家族システムから見る日本の絶望的な現状

家族システムについての大雑把な概要は以下に書いてあります。今回は、アノミー型核家族と日本の現状に絞って書いていこうと思います。

各共同体を縛る志向性を見ていくと、アノミー型核家族のヤバさがよくわかります。ちなみに、「力への意志、第三者の目、規範意識」の三つの志向性は組織や個人を強くするためのものです。

共同体家族 力への意志と規範意識 大きく強大な組織を志向
平等家族 第三者の目と規範意識 清く正しい組織を志向
絶対核家族 力への意志と第三者の目 より強い個人を志向
直系家族 力への意志 強さを志向
アノミー型核家族 なにもない 志向するものがない

つまり、アノミー=無秩序、無規範、無軌道とすると、成り立ちにおいて縛り付けるものがないが故のアノミーです。そして、現在の日本で集団を縛りつける志向性はあるでしょうか。

個人は力への意志や第三者の目で縛りつけるタイプの「勝ち組」はいます。が、共同体単位でなにかしらの縛りつけるなにか=価値観があるでしょうか。

日本において力への意志はあるのか。共同体(=国家)における力への意志は富国強兵です。貧国弱兵を旨とする日本という国家に、「力への意志がある」と断言するのはいささか冗談がすぎると言うものでしょう。

日本において第三者の目(批評眼)はあるのか。国外、国内においてともに「良い悪いの基準」は、形式上のポリティカルコレクトネスとそれに伴うキャンセルカルチャーを無批判で受け入れ、ほとんど反射と反応だけで行なっているため、価値観とは言えません。「動物の反射と反応」を思想や価値観と呼ぶ人はいません。

日本において規範意識はあるのか。公文書の改竄を日常的にし国民ももはや麻痺してきているこの国でそんなものがあると思う方がどうかしてます。遵法精神とは法を遵守する姿勢だけでなく、なぜ「法が必要なのか」の理解も伴います。アメリカ型の「勝てば官軍」状態のこの国のどこにあるのでしょうか。

つまり、日本はとっくにアノミー化しているといってよく、現状から共同体=国家を改善する志向性は見てとれません。

あるのは、強者が生存競争を勝ち抜くべくあらゆる手段を用いるか、欲望と本能を充足させるべく各人が無軌道な反射と反応を繰り返しているだけです。

そして、選挙や国政などの長期的な視野のもと、共同体=組織=国家を強化していくような事項に関しては、「不確実性」を排除した姑息(=その場しのぎ)な強化ばかりしているのが現状です。

とはいえ、これは日本に限ったことではなく、東浩紀が1990年代に「動物化するポストモダン」なる本を書いていて、風潮がポストモダンに移行した民主主義の先進国全てで起きがちな現象とも言えます。

民主主義=動物化した大衆が政治の意思決定をする=意思決定が滅茶苦茶になる

では、どうすればこのアノミー化からの共同体の崩壊を食い止めるのか。実は、答えはすでに書いてまして、国家や共同体に「力への意志、第三者の目、規範意識」の志向性を持たせることに他なりません。しかし、果たして可能でしょうか。

家族は共同体の最小単位です。その最小単位で価値観が溶解して消失しているのに、どうしていきなり国家単位なる大きな単位で志向性や価値観が生まれるとお思いなのでしょう。

志向性や価値観のない国家など動物園と変わりません。役割が飼育員なのか動物なのか観客なのかの差はあるでしょうが。

結論から言うと、この国は詰んでいます。なぜ詰んでいるのか。誰も本気でこの国をなんとかしようと考えてないからです。誰もがその場しのぎの回答しか理解できないし興味がありません。

失われた30年が過ぎようとし、核武装国に囲まれている現状、なにをすべきなのかと聞かれたらあなたはどう答えますか。その回答はその場しのぎの回答ではありませんか。そこに「力への意志、第三者の目、規範意識」はあるのでしょうか。

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