【イベントレポート】「みんなに届け!ぼくの推し本」第1弾著者をお呼びしてのオンライン読書会開催レポ
11月の推し本「うしろめたさの人類学」は店頭でもオンラインでも発売中!
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本を書いた経緯について
本屋担当 町田(以後、町田):
そもそも最初に『うしろめたさの人類学』という本を書くことになった経緯は何だったのですか?
松村圭一郎さん(以後、松村):
ミシマ社の代表をやっている三島邦弘さんは、そもそも大学の同級生で、しかも同じサークルで一番仲の良かった友達なんです。そして彼がいくつか出版社を経て自分で出版社を立ち上げて、そのころからミシマ社の「京都的」というウェブマガジンで「エチオピア的」を連載したところから始まっています。
今は『みんなのミシマガジン』となっていますけど、書き手が少なかったころからコツコツと書いていました。2009~2013年には「構築人類学入門」というタイトルで連載をして、毎月ちょっとずつ書いていました。連載が終わって本にしようとしたのですが、章と章の間に何か入れたいという話を三島さんから提案されました。1年くらい悩んで、ふと最初にエチオピアに滞在したときの日記を入れることを思いつき、ようやく形が見えて出版に至りました。
町田:なるほど。ちなみに『うしろめたさの人類学』というタイトルなのですが、これはどういう風に決まったのですか?
松村:ミシマ社の本は、ミシマ社の全社員でタイトル会議をするんですね。三島さんからはタイトル会議をしてタイトルを決めたいと思うという話は来ていて、当然著者も呼ばれるだろうと思っていたらすでにタイトル会議が開催されていて、決まりました!「うしろめたさの人類学」でいきます!と言われて、ええっ!ていう。(笑) 今でも著者抜きでタイトル会議は行われています。
この案はミシマ社の自由が丘オフィスで編集をされている星野さんが提案してくれたそうです。このタイトルじゃなかったら手に取らなかったという人も多分いて、ミシマ社にいろんな意味で助けられましたね。自分じゃ思いつかなかったと思うので。
文化人類学者の感じる、ホームとフィールド
参加者:エチオピアがホームになるという感覚はありますか?
松村:エチオピアの空港に着くと、薪を焚いた煙っぽい臭いとか乾いた風とか、飛行機から外に出ると肩の力が抜けて、やった!エチオピア来た!日本脱出した!みたいになるんです。
でも、それはエチオピアがホームだからではなく、気分的に変わる。そこがホームになるわけではなく、いずれは日本に帰るからこその気楽さなのであって、そこはやっぱりフィールドなんだろうなと思います。
参加者:その時の感覚は、旅や留学をしたときに感じる解放感や、地方から都市に行った時の感覚みたいな感じなんですかね?
松村:そうです、人類学者もおんなじですよ。私が最初にエチオピアに行った時も、ただのふつうの学生としていったのが今研究者みたいになっているというか。
文化人類学者の書くことが他の所で生きている人とつながるというのは、人間が日常生活で感じたり考えたりすることの延長線上に学問があるので、身近なんですよね。だから、文化人類者が話すときって常にわたしがどう考えたか感じたかというところから始まるんです。
常に具体的にしか話したがらない。体験があって経験があって、そこが入り口なので他の場所で皆さんが経験していることと地続きではあると思うんです。
私には何ができるのか
参加者:「うしろめたさを乗り越えて公平さを目指す行動が必要」だとこの本では主張されていて、私も自分にできることから行動するようになりました。
それでも社会に対してもっと何かできるのではないかという思いもあり、本には書かれていない具体的な方法や事例があればお聞きしたいです。
松村:確かに難しいんですよね。みんな一律にこうしたらいい、という答えはないんですよね。ひとりひとりやれることは違うと思いますし。『うしろめたさの人類学』のひとつのポイントは、「うしろめたさ」を感じて行動するって、そこから世界がどう変わるかをもとめてるんじゃないってことなんですよね。
生きてるって、ある種の表現活動で、私がここに生きてるよって言ってるだけだと思うんです。私はこういう世界をつくりたいから、こういう場所をつくってみるみたいな行動は、内側から生まれる、自分のうしろめたさを解消するために表現として出しているだけなんですね。それが結果的に私が生きている世界とは違う大きな「世界」を変えるかどうかを目指さない。所詮、私の中にあるうしろめたさを解消するためにやっていて、自分が与えられたものに対する返礼にすぎない。
結果を求めると、表現が私である必要はないんですよね。売れる本を書くには、もうすでに売れている本の真似をすれば売れるかもしれませんが、それは私の表現ではないんですよね。私の内側から生まれる表現とは違うんですよね。やむにやまれずに、この声を発しているんだということです。そうじゃないとちゃんと人にも伝わらないんじゃないかと思いますし、結果的に全然伝わらなかったとしたら、そのことも引き受けて、より自分の表現になるために何が必要か、考えなければいけないと思っています。
参加者:でも結局個人の力では、世界や社会は変えられないことにもどかしさも感じています。
松村:『うしろめたさの人類学』から『くらしのアナキズム』まで一貫しているのは、そこでいう世界とか社会は、私が感じる等身大の世界のことであって、それはどんな人も同じなんですよね。ひとりひとりは小さな存在にすぎなくて、そこにまずは世界があるって考えないと無力感しかないですよね。
どうやって自分の心が折れないで一歩前に出られるか、声を出していくかって想像するときに、世界や社会を身近なところに留めておく。それが大事になるような気がします。
感情の振れ幅
参加者:本を読んでいて、町を歩いていると話しかけられたり、物乞いに手を突き出される面倒くささはあるなと感じたのですが、逆にエチオピアから見て日本の社会はどうみえるんでしょうかね?
松村:エチオピアでは、人との関わりの面倒くささがある一方で、人との関わりの中で得られる喜びもあるんです。感情が面倒くさいや鬱陶しいという方向にも振れるけど、同じくらいの振り幅で美しいや幸福だという方にも振れるんですよ。いい悪いではなく感情の振れ幅が、日本だと最小限に抑えられていて、安定はしているんだけど開放もされないというか。
当然エチオピアの人も面倒くさいと思っているところもあるし、都会に出ていく若い人もいるんだけど、都会的な人間関係は寂しいと村に帰ってくる人もいるんですよね。外国的な生活への憧れも当然抱かされてはいるんだけど、でもたぶん日本に来たら、日本人さみしくない?って言われると思う。
参加者:エチオピアの人から見たら、日本の社会もまったく別なものとして、想像もできないくらいの異世界に感じるんでしょうね。
松村:わたしたちが日本の中で喜びだとされているものが、本当に喜びと言えるものなのか、問われてしまいます。生きているってどういうことなのか、人間が生きてるってなんだろうな、と考えさせられる。エチオピアで大変なこともいっぱいあるけど、そういう面倒くささを排除した後に、全部用意されてプログラムされてしまうと、どこに「生きていること」が残るの?と感じてしまいますよね。
贈与と商品、二極化と曖昧さ
参加者:個人的によく分からないものや曖昧なものが大事だと思っています。あれかこれかの二極化ではなく、その間のグラデーションが大事だと思っているのですが、でもそれをわかりやすく言語化したり定義しすぎると問題も起きるなと思っていて、その辺り松村さんは曖昧さをどう考えておられますか?
松村:たとえば『うしろめたさの人類学』は、分析装置として贈与と商品交換っていうのを違うものとして提示して、それを基に議論しているんですよね。物事をわかるというのは、ある程度分けたうえで違うものを比べたりしながら位置付けていくのですが、当然現実はその二極にはおさまらないですよね。なので、『うしろめたさの人類学』のときは、贈与に重心をおいて書いていたんですが、だから次の著作の『くらしのアナキズム』はあえて商品側に軸足をおいて書いたんです。
ものを考えるって、ひとつの「答え」を出すことではなくて、いろんな筋道の可能性を試してみることだと思っていて、今は商品交換のなかに生まれる人格的関係という線をたどって思考実験をしています。
私も揺れ動きながら考えているので、いろんな穴を掘って考えているんですよね。理解するには「わかりやすさ」も大事で、曖昧なままではうまく理解にはたどりつかないし、人にも伝わりにくい。ただ、ひとつの「答え」にとどまるのではなく、いろんな抜け方を試してみることが大事なんではないかと。
うしろめたさの起動と、その条件
参加者:うしろめたさを起動しやすかったり、感じやすかったりしやすい条件みたいなものはあるでしょうか?また、コミュニティ内でそれを起動するための条件なども伺えたらうれしいです。
松村:ひとつは、状況として人が多すぎるとしんどいから閉ざしがちになってしまう気はします。この前久しぶりに東京に出張に行った時も、人間が多すぎると余裕がなくなってしまうんだなと感じましたね。スイッチを切ることでしか生き延びられない状況がつくられているんじゃないのかなと。人間が余裕をもって生きられる環境が関係しているんではないかと。
でも、大都会では起きないわけでは全然なくて、この前ニューヨークで子育てをしたご夫婦の話を聞いたんですね。現地の地下鉄はエレベーターのない階段ばかりなんだけど、ベビーカーを押していても全く困ったことがないとおっしゃっていました。いつもベビーカーを押していたらみんな寄ってきて階段を運んでくれたりする。そんな大都会でも共感が起動しうるのはなんでかなと思っています。起動のしにくい感じに日本の町がなっているのはなぜかなと。
それはおそらく、システムの問題だと思うんです。システムへの依存が大きいからではないかと。
ニューヨークの事例は、システムに依存しないで生きていることがノーマルだと感じられていると、ちゃんと人間は困った人がいたら手をさしのべるのがあたりまえだと思えることを表していると思っています。
『うしろめたさの人類学』や『くらしのアナキズム』で一貫して意識しているのは、日々言葉を交わしたりものを誰かに与えたりするっていうコミュニケーションレベルで世の中は動いていて、そこを信頼することから世の中についてどう考えていくかという点です。
発刊から5年経っても熱い議論を生んだ「うしろめたさの人類学」
今回、本屋担当の推し本ということでピックアップさせていただいた『うしろめたさの人類学』。正直、どれだけの人に届くのか、オンライン読書会でもどこまで人が集まるのかと心配もしていました。
ですが、本も多くの方に届き、読書会でもそれぞれが「うしろめたさの人類学」を読んで感じたことや考えたことを松村さんに投げかけておられました。"うしろめたさ"をどう行動につなげるのか、巨大なものに思える社会をどうやって個人個人が動かしていけるのかなど、明確な答えがないものも多いですが、この『うしろめたさの人類学』からヒントを得たり、考えるきっかけとして読んでいただけたらありがたいです。
この本はまだまだ推していきたいと思っています。購入は店頭もしくはSANJO PUBLISHINGのオンラインストアからもできます。オンラインストアはこちらから。
「みんなに届け!ぼくの推し本」という企画は今後も開催していきます。
次は2023年の1月開催予定で、推し本は田畑書店から刊行されている安西水丸著『たびたびの旅』です。本についてはこちらからご覧ください。
また次回のフェアの際も本にまつわるイベントを開催予定です。情報はSNSなどで発信していきますので、ぜひご覧ください。
編集部:
SANJO PUBLISHING 本屋担当:町田 編集担当:水澤
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