承認欲求の否定の否定

 結構前に友達が、Instagramをよく更新してる人を「承認欲求強すぎ、キモいよね」と言っていた。自分もその時は共感していた。

 承認欲求という言葉を知ったのは、Instagramが流行り出してからだ。今なら分かるけれど、承認欲求ってのは、ほとんどの人間が少なからず持っている。多くの人間に予め備わっているものだと思う。

 原始的な時代、1人で生きていけないから集団で狩りをしてるような時代に、集団に利益を与えれない人は死ぬしかない、生きていけなかった。集団に必要とされる事で生き延びることに繋がる。そんな時代があったから、遺伝子的に人間には、誰かに必要とされること、存在を承認されることに、安心感や喜びを感じるのかなと思ってる。

 そういう事を考えるようになって、承認欲求を否定するのは絶対に違うと思った。自分にだって承認欲求はある。見事に自分のことを棚にあげていた。本当にズルい奴だ。見てる人なんてほとんどいないけれど、このnoteをやってる理由の一つとしても少しはある。あの友達にも承認欲求はある、Instagramをよく更新する人をキモいと自分に話してるって事は、共感を求めている、それは承認欲求なんじゃないか。

 でも、やっぱり未だにInstagramを過剰に更新する人は苦手だ。多分自分が嫌ってるのは承認欲求ではない。承認欲求の満たし方だ。Instagramを過剰に更新して、フォロワーやいいねの数を気にして、それで承認欲求を満たす。ケータイひとつでできて、すごく手軽で、欲求は満たしやすいけれど、その分失いやすいんじゃないか。人それぞれ違うけれど、自分には大事なものを履き違えてる気がする。目に見えない世界の、目に見える数字に、踊らされるのは危険なんじゃないか。

 何者でもない人が、Instagramのフォロワー数、いいね数で過剰に承認欲求を得て、現実とのギャップに病んでしまう人がいるように感じる。薄い糸をたくさん持つより、太い紐を数本持っていたい。どんどんイノベーションが進んでも、リアルな実感を大切に思える人で在りたいし、そういう人が好きだ。承認欲求を実感で満たしたい。

 別にInstagramを否定するつもりはない。自分も公式アカウントを見るようにだけ、友達とは繋がらずにやっている。自分と同世代は9割程やってる気がするけれど、全員に合う物でもない気がする。でも、そうと分かっていても、みんながやっているから、やってない奴は変な奴だとされる。本当に面倒くさい世間だ。


 最後に言いたかったのは、朝井リョウさんの著書「正欲」を読んでから思うようになったけれど、欲求は否定する物じゃない。否定できるとするならば、欲求の満たし方だ。

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